最後のプレゼント?
父親の介護では、できないことへの補助が多く、「できるようになってほしい。」と願うことはあまりありません。
できない事実を受け入れて、「仕方がないなあ。力を貸そうか。」と思いながら、支えています。
ところが、孫に対しては、「できるようになるはず。」と、できない事実を受け入れられず、「できるようになってほしいから、力を貸そう。」と思う事が多くなります。
「できない」から「できる」までの歩みは、人それぞれです。
ところが、「できるようになってほしい。」と思って、孫を支える時に、自分流の学びの過程で支えようとしてしまいます。
この姿は、子どもを育てる時の親の姿と重なります。
能力を身につけた自分の学びの過程が、子どもを育てる過程になります。
よく「育てられたようにしか育てられない。」と言われるのは、この事に他なりません。
しかし、自分流の学びが、育てられる子どもの学び易さになるとは、限りません。
(自分の「できない」から「できる」までの流れと子どもの「できない」から「できる」までの流れは異なります)
例えば、筋道を立てて考えながら失敗をしないように慎重に一つひとつ学ぶ事が得意な子もいれば、失敗を繰り返しながら体験を通して学ぶ事が得意な子もいます。
つまり、自分の得意な学びのパターンに合っている事が、学び易さになります。逆に、合っていないと、時間がかかったり、ストレスから学びが停滞したりすることになります。
この時に役立つのが、介護をする時の「できない事を受け入れる」になります。
一旦諦めると、余計な力が入りません。
これは、歩けない赤ん坊を目の前にした親の姿に似ています。
歩けるようになってほしいと思っていますが、歩き方を教える事はありません。
赤ん坊が歩けるようになっていく変化を楽しみ、喜び、応援します。
歩けない事実を受け入れ、赤ん坊の能力に合わせて力を貸しています。
諦めることは、我を捨てて、目の前にいる相手を丸ごと受け入れることになります。
これは、自分の願いでなく、相手の願いに合わせる事になります。
そして、これが、相手の学び易さに合わせた対応になります。
相手を十分理解し、何に力を貸せばよいかを探ります。貸した力がよかったかどうか、相手の反応を確認しながら対応を考えます。
自分流ではなく、試行錯誤をしながら相手に寄り添う事になります。これならば、子どもも、受け入れるられやすく、学び続けることができます。
自分流は、子どもにとっては、学び方の一つでしかありません。
これが正しいからと思って、自分流を押し付けても子どもに通用するかどうかは分かりません。
全ては、子ども次第です。
何を望んでいるのか、何をすることが自ら成長するために役立つのか
試行錯誤しながら寄り添うと、余計な力が入らず、ストレスも少なくなります。
休みに遊びに来た孫に「遊んでばかりいて、勉強しなくてもいいの?」と声をかけたくなった自分を引き止める自分がいました。