子どもの心はどんなふうに育つ?
こんにちは。
カウンセリングオフィストリフォリの高澤です。
お久しぶりの投稿です。
ところで昨日のこと、ネットニュースで次の記事を見つけました。
↓
https://select.mamastar.jp/402224?utm_campaign=402228&utm_medium=referral&utm_source=yahoo_netallica
内容をざっくり言うと、、、
優等生の中3の娘が学校でクラスメートに
「自殺するまでいじめてやるからな。覚悟していろよ」
と脅していたことを知った母親からのお悩み相談。
この娘さん、
それ以前にもクラスメートの机を蹴るなど
問題行動があり、相談者の母親はそのことも
すでに知っていたとのことでした。
この記事で衝撃を受けたのは
このお嬢さんの行動ではありません。
相談している母親の言動です。
過保護や甘やかしは「やさしい虐待」
ここまでのことをわが子がしているにもかかわらず
●「子どもを信じる」と言って一切叱っていないこと
●いじめに遭った側への配慮が微塵も感じられないこと
●わが家では「いい子」の子どもにクラスメートへの暴言を先生から聞いたと伝えることは「子どもの顔を潰すことになる」という意味不明な発言をしていること
●今回のことは「なかったこと」にして今後娘をしっかり観察することで終えようとしていること
ここで質問です。
この子育てを続けていった結果、
このお嬢さんは10年後、20年後には
どのようになっているでしょうか?
子どもの何を育てれば子育てになるのか
私たち人間には
『感情的(情緒的)欲求』
というものがあります。
それは物欲、権勢欲、怠惰欲、承認欲
などといった俗世的な欲求とは異なり、
人が人として人の中で生きていくうえで
必須の”ニーズ”のことです。
●愛着の欲求
愛されたい、つながりたい、守ってほしい
●有能感の欲求
いろんなことができるようになりたい、自分には力があると感じたい
●表現の欲求
自分の気持ちや思いを自由に表現したい、自分の思いを大切にしたい
●自発性や遊びの欲求
自分らしくありたい、のびのび過ごしたい、楽しくすごしたい
●自律性の欲求
自制できる自分になりたい、我慢もできるようになりたい
こういったニーズが満たされた子どもは
・・・
*「自分は愛されている!大切な存在だ!」
*「人は仲間だ!信頼できる!」
*「自分には力がある!できることがある!」
*「自分は自分であっていいんだ!」
*「うれしい!たのしい!おもしろい!」
*「自分のことをちゃんとコントロールできる!」
・・・
といった思いを心の底に組み込むことができます。
これをひな型にして生きていくわけですから、
とても生きやすくなっていきます。
一方、大切なニーズが必要最低限すら
満たされなかった子どもは、、、
・「自分に価値はない。愛されない。ダメな人間」
・「人なんて信用ならない。安全じゃない」
・「一人では生きていけない。助けがないと無理」
・「自分の価値は相手の評価次第」
・「どうせいいことない。我慢するしかない」
・「自分は特別。何をやっても許される」
などといった思いを心の奥底にセットしてしまいます。
これを土台にした人生はひどく生きづらいものです。
つまり子育てとは、
上述の子どもの本質的ニーズを
満たす関わりと言い換えることができます。
「子どもを信じて見守る」の嘘
「私は子どもを信じています。
だから何も言わずに見守っています」
こういった言葉を時折耳にします。
一見聞こえがいい言葉ですが、
子どもが人を傷つけたときですら
何のガイドもしないのであれば、
それは子育てではありません。
なぜなら、その環境で育った子どもは
「人を傷つけてもいい」
と誤って学習してしまう可能性があるから。
私は親としてこう思います。
わが子には被害者になってほしくない。
だけどそれ以上に加害者になってほしくない。
そのために親の私たちは
言いたくなくても言わねばならないこと
があると思うのです。
苦言は決して心地よくはありませんが、
そのままでは先々わが子が苦しむことは
目に見えている。
にもかかわらずそれを「信じている」という
美辞麗句で終わらせてしまうかかわりは
「見守り」というよりは
「見放し」と言わざるを得ません。
「子どものため」という大嘘
「私は子どもを信じています」
「それなのに叱ってしまえば信じてないことになります」
「そもそも子どもを傷つけたくありません」
こういった言葉もこれまでに
たびたび耳にしてきました。
「子どもを信じている」
↓
「つまり子どもは悪くない」
↓
「だから苦言を言う必要がない」
こんな仕組みでしょうか。
「信じている」「傷つけたくない」
これも一見耳ざわりの良い言葉です。
しかしここで目的を掘り下げていくと
全く違うものが見えてきます。
たとえば事例とは正反対に
「ダメなものはダメ」とわが子を叱る
こともある母親Aさんにこう尋ねてみます。
「何のために叱るのですか?」
↓
・周りと人間関係を持てる子になってほしくて
・人を傷つけない人間になってほしくて
・先々自立できる人間になってほしくて
さらに尋ねます。
「そうなったら誰が助かりますか?
↓
「うちの子です」
Aさんにとって
叱るという行為は「したくないこと」。
にもかかわらずそれをするのは
「わが子のため」
ということになります。
その一方で「子どもを信じています」と
言って注意も叱りもしない母B子さんには
こう尋ねてみます。
「叱らないのは何のためですか?」
↓
・
・
・
この問いに対しては
「子どもを傷つけないため」
という答えがよく出てきます。
しかしそれを掘り下げるために
もう少し質問を加えていきます。
「子どもが傷つく可能性があるからと、
(言う必要があっても)言わないのは何のため?」
↓
すると、、、
・子どもに嫌われたくなくて
・子どもから嫌な顔をされたくなくて
・「私はいい親」と思いたくて
etc.
ここで再度こう尋ねてみます。
「それは結局誰のためですか?」
その答えは
「子どものため」ではなく
「親である自分のため」
となります。
親は不完全で当たり前
親と言えど人間です。
自分中心になることがあるのは
実は自然なことです。
しかしそれを否認してしまえば
それはすなわち自己欺瞞となり、
子どもだけでなく自分をも欺く
ことになってしまいます。
欺瞞の上に乗った子育てでは
どんなに「良い方法」があっても
うまくいくことはありません。
本当に子どもを育てたいのなら
冒頭の事例のお嬢さん。
どうしてクラスメートに対して
暴言や暴力(机を蹴る)に及んだのか。
その意図や背景を聴くことは
とても大切なかかわりです。
本人なりの
【理由】
がそこにはきっとあることでしょう。
その一方で、この子がやった
【行為】
はどうでしょうか。
この事例のお母さんは、
わが子が同じ目に遭わされた時に
黙っていられるでしょうか?
相手の親から
「うちの子を私は叱りません!」
「だって信じていますから!」
と言われて納得できるでしょうか?
「うちの子、うちの子」と声高に
言う人ほどきっと難しいはずです。
「叱る」は「怒りをぶつける」ではない
わが子が望ましくない行動を起こし、
ほかの誰かを傷つけたとしても、
その行為の意図は聴いてあげたいですね。
そこにある「本人なりの理由」が分かれば、
それをしっかり受け取るのも親の仕事です。
それと併せて子どもには
「ダメなものはダメ」
もしっかり教えてあげたいところです。
ちなみに叱るとはそういう意味であって、
「怒りをぶつける」ではないですからね。
「なんでそんな酷いことしたんだ!」
と怒鳴ったり叩いたりする行為は
「叱る」ではないですよ。
それは
「怒りをぶつける」という行為ですから、
決して望ましいものではありません。
子育てに必要なものは”勇気”
突然ですが
アドラー心理学というものをご存じでしょうか。
そこでは
*勇気づけ
というものを大切にしています。
子どもが(実は大人も)不適切な行動をするのは
「勇気がくじかれているから」
と考えます。
だったら私たち親が為すべきは
「子どもを勇気づけること」。
では勇気とは何か。
それは
・
・
・
*「したいけど、すべきでないことはしない」
*「したくないけど、すべきことはする」
これが勇気の定義です。
今回の事例のお嬢さんは、
暴言や暴力という「すべきでないこと」を
しています。
それまでの間に何らかの理由で
勇気をくじかれてきたのでしょう。
そしてその子のお母さん。
わが子を叱るという「したくない」けれど
「する必要があった」ことをしなかった。
つまりこの方も何かしらの理由で
勇気をくじかれたままなのでしょう。
大切なことは「何をするか?」ではなく「何のためにするか?」
子どもをほめたほうがいい?
ほめ過ぎるとわがままになる?
子どもは叱ったほうがいい?
叱りすぎると虐待になってしまう?
ほめるか・叱るか論争は未だ
いろんなところで見聞きします。
しかしどちらかが正解なんてことは
ありません。
大切なことは
「わが子のまだ満たされていないニーズは何か?」
と満たしてあげるべき情緒的欲求を探索し、
そのあとで
「それを満たすために私にできることは何か?」
と考えて実践していく。
子育てに正解はありませんが、
こういった【方向性】さえ持っていれば
子育てに迷うことは減っていくと思います。
かく言う私も子育て真っただ中。
失敗なんて日常茶飯事。
息子に説教される日々です( ̄▽ ̄)
失敗体験から学びながらともに
親として成長出来たらうれしい限りです。