子育ては母親の責任?
先日のこと、とっても若いお母さんの相談をお受けしました。わが家のこと、子育てのこと、夫のこと、そのほかいろんなことに悩みながらも、その苦しい状態でも明晰に物事を考え、勇気をもって行動を起こし、将来を見通す目ももち、わが子を深く愛する慈愛を強く感じました。
私が彼女の年のころは、女子とバイクと友だちのことくらいしか頭になかったです( ̄▽ ̄)
人の成長は年齢だけではないんだなぁと教わりました。
マニュアルで「愛されている」と感じられるか?
親としての出来で言えば、私は赤点はなはだしいです。親のくせにすぐすねるし、いじけるし、子ども同士みたいなケンカするし、たまに癇癪起こすし、必要以上にべたべたくっついてまわるし。。。
そんな赤点とうちゃんですから、子育てのマニュアル本を読んだり、セミナーに参加したり、心理学的な理屈を無理やりわが子に当てはめようとしたりとジタバタしたこともあります。
でも残念ながら、学んだ瞬間は「これで大丈夫!」と思えるのですが、やはり日を重ねるうちに「いつもの自分」が優勢になってばかりでした。残念…。
では今はどうかと言うと、赤点ぶりはさして変わりません。でも子育てはうまくいっていると感じられるようになっています。結果オーライってやつですね(*^^)v
数日前のこと、夜寝る前にふとんの上で息子とじゃれていたとき(わたしの至福の時間!)に、なんとなくこんな話になりました。
父「自分は親から愛されていると思う?」
子「うん。むしろそうとしか思えない」
…父、平気なフリするが、ここでほくそえむ( ̄ー ̄)ニヤリ…
父「じゃあもし両親から愛されていないとしか思えなかったら、今とはどんなふうにかわる?」
子どもが心を閉ざすとき
答えはこんなものでした。
●笑わなくなる
●話さなくなる
●一緒にご飯食べなくなる
●自分の部屋から出なくなる
父「もし何か話さないといけないことが起こったら?」
子「部屋のドアの下からメモを出す」(つまり会話はしない)
私は支援活動の一部で不登校・ひきこもりの支援をしていますが、息子から語られたものは当事者の在りようそのものでした。驚きました。
笑おうにも笑えない。
受け取ってくれないから話さない。
一緒の空間にいることがしんどい。
自分の部屋しか落ち着けない。
要件があっても会話したくない。
子どもたちは経験から学んでいるのです。
「どうせ受け取ってくれない」
「どうせ聞いてくれない」
「どうせまた押し付けられる」
以前ある不登校児がわが家のことをこう言っていました。
「あそこは牢屋です」
「愛しすぎ」の功罪
ここで質問です。
子どもが心を閉ざすような家庭の親御さんは、みな子どもに無関心だと思いますか?子どもを物みたいに粗末に扱っていると思いますか?
そういったケースもなくはないですが、たいていはその逆です。逆とは、むしろ関心の向けすぎ、干渉のしすぎを意味します。「愛しすぎ」と言ってもよいかもしれません。
「ちゃんと育てなきゃ!」「ちゃんとさせなきゃ!」といった強い念は、「良い親」「正しい子育て」を自動的にターゲットに据えます。
それを達成するためには手段が必要ですが、たいていはマニュアルが選ばれることが多いようです。
*褒めて育てよう
*怒りが湧いたら鎮めよう(アンガーマネジメント)
*子どもの話は目を見て真剣に聞いてあげよう
*子どもの意思を尊重しよう
*子どものことは子どもに任せよう
などなど
こういった方法論が悪いとは思いませんが、現実ではうまくいかないことも少なくないようです。
それにはこんな理由があります。
・子どもはマニュアル通りの反応をしない
・年齢や特性によっては「おススメ」が禁忌事項になることがある
・手段達成が目的化する(それを使って成し遂げたいことを見失う)
それ以上に、どんな「良い方法」があってもうまくいかない理由があります。
それは「不安」(恐れ)です。
不安に動機づけられた行動はどうしても「過剰」になることを避けられません。
つまり
●スタート:親の不安
↓
●「良い親」「正しい子育て」を希求
↓
●子どもへの過度な介入
しかしこの過剰な介入は
●子どもの心の窒息
を招くリスクを高めます。
「親は愛してくれている。でもすごく息苦しい」
「愛してくれる親を悪く言う自分が許せない」
こんな訴えをきいてきたのは一度や二度ではありません。
愛情の勘違い・行き違い
子どもが社会参加できないことに悩む親御さんたちにはよくこう尋ねます。
「お子さんを愛していますか?大切に想っていますか?」
答えの多くはイエスです。
次いでこう尋ねます。
「お子さんは子どものころから『自分はありのままで愛されている』と感じていたと思いますか?」
今度はほぼ100%の確率でノーです。
この行き違いは何によって起こるか。
それは
●親が思っている愛情
と
●子どもが求める愛情
が違っているからではないでしょうか。
あるお父さんの言葉
「私は子どものころ貧乏で、おもちゃひとつ買ってもらえなかったんです。それがつらかったんです。だから子どもにはそんな思いをさせたくなくて、必死で働いて、子どもが欲しいものは不自由なく与えてきたのに。なぜこんなことに。。。」
あるお母さんの言葉
「私は子どものころピアノが大好きで、ピアノを習いたかったんです。でも親が勉強の邪魔になると言ってさせてくれませんでした。だから娘には思う存分ピアノをさせてあげたかったんです。なのに。。。」
いずれも子どもを嫌悪しているどころか、自分のような不幸や不遇を味わわせたくないと懸命にかかわってこられた様子がうかがえます。
親はわが子を愛するが故に
「つらい思いをさせたくない!」
と願います。
でも、読者のあなたはお気づきでしょうか。
先の例はいずれも
●「わが子」が望むもの
ではなく
●「子ども時代の自分」が望むもの
を与えようと躍起になっています。
子どもは親と同一人格ではありません。
いろんな影響を親から受ける一方で、自分なりの感じ方、考え方、好みをもつ【独自の存在】です。
親が「良かれ」と与えたものであっても、それが子どもの望みとズレていれば、それはただの苦痛な体験にしかなりません。
子育ての答えは全部わが子が教えてくれる
一見当たり前のように見なされながらも、実はかなり見過ごされていること。
子育ては
★わが子に合ったもの
が最善だということです。
世にあるマニュアルもケースバイケースでは役に立ちますが、本質的なことはわが子に学ぶ以外ありません。
だって私たち親が育てている命は、どこの誰とも知らない「子ども」ではなく、自分らしさという色を持った目の前にいる「わが子」なのですから。
ではどうやってわが子から学びましょうか。
わが子から学ぶステップ
まずは観察です。
子どもはどんなときに笑っていて、どんなことに集中していて、どんな場所ではリラックスしていて、誰といるときに元気でいて、何をしているときにエネルギーが湧いているか。
わが子の元気、穏やかさ、笑顔が「いつ」「どこ」「誰と」「何を」「どんなふうに」に現れているかを観察するのです。
本やネットの情報のなかに「わが子」はいませんよ!目の前にしかいませんよ!
観察から見出せたことを実践すると、それだけで子どもは変化し始めることが少なくありません。まずは観察から得た「わが子専用の有用なかかわり」を続けてみてはいかがでしょうか。
うまくいかないときは
ではそれだけでうまくいくかというと、それでもうまくいかないときはあるものです。こんなこと書いているわが家では度々です_| ̄|○
でもそのときの対策があるといいですね。
それは何でしょうか。
・専門家に相談?
・最新の子育て法を学ぶ?
・援助者に肩代わりしてもらう?
あくまでも”個人的に”ですが、全部ノー!です。もっと簡単で、的を外さず、よりパワフルな方法があります。それは、、、
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★子どもに直接きく
乳児の頃はとにもかくにも【観察!】がなにより大切ですが、3才を過ぎた位になると未熟ながらも言葉で意思を伝えることが徐々に可能になってきます。
小学生にもなるとさらに明確に伝えてくれますし、その後の思春期ともなればなおさら意思が明確です。
ということで、子どものことは子どもに聞けばいいだけですね。
決して私たち親が見誤ってはいけないこと、それは
★わが子の専門家はわが子だけ
唯一正解を持っているのがわが子なわけなのですよ。私たち親ではないわけなのですよ。
「どうしてほしい?」
「なにがいやだった?」
「なにがすき?」
「なにがたいせつ?」
こんなシンプルなことで子どもが正解を教えてくれるのですから、これを使わない手はないのではないでしょうか。
とはいえ、これまでずっと聞かずにきたのであれば、ある時期から急に聞き始めても、そう簡単には伝えてくれない可能性が高いことは念頭に置いておいてくださいね。因果の道理ですので。
ちなみにうちは「観察」とこの「直接聞く」はずっとやってきました。そのお陰でしょうか、先の息子とのやり取りの後にはこんな会話がありました。
父「じゃあどんなときに『愛されている』って感じるの?」
子「挟まれているとき(両親が両面からハグすること)
父「ほかには?」
子「う~ん、、、母ちゃんがぎゅーってしてくれたときとか、父ちゃんが買い物で食べたいお菓子買ってくれた時とか」
父「へ~、そんなときに感じるの?」
子「う~ん、、、。って言うより、何かがあるからって感じじゃないっちゃんね。なんとなくなんよね」
これは、何かをしてくれたから愛されていると感じるのではなく、それがあってもなくても愛されていると感じてくれていることを示してくれる言葉です。
【子どもの観察】と【直接子どもにきく】
この二つは個人的には子育ての無敵のリソースだと思っています。
「子どもに直接きく」を妨げるもの
「子どもに直接聞きましょう!」
これを言うとこんな答えがかえってくることしばしばです。
「子どもは未熟だから聞いても無駄」
「まともな答えはかえってこない」
「親がちゃんと考えてあげなきゃ」
もしこんなことを信じているのであれば、その姿勢から改めてみることをお勧めします。
子どもであっても立派な命です。対等性を欠いた交流はたとえ親子であってもうまくいかないものです。
子どもが何を望み、何を感じ、何を思い、どうしようとしているのか。
これをすべて知っているのは唯一「わが子だけ」なのです。
これ、学校のテストで言えば、正答を見ながら解答しているようなもの。赤点回避は確実ではないかと思っている次第です。