子どもの心の傷とその影響②
こんにちは。
たかざわです。
今朝は早くから健康診断に行ってきました。
そのとき診察してくれたお医者さんったらもう…。
部屋に入ると話も聞かずいきなり指導。
(というかダメ出し 涙)
まあそれはよしとしましょう。
その指導中に携帯に着信あり。
「あなたじゃないの?ちゃんと切っといて!」と。
「いえ、切ってますよ」と言うと「あ、私だ」と。
確認せず人のせいにしないで〜(涙)
それはよしとしましょう。
しかしまさか、それに出ようとするとは、、、。
間に合わず切れていたようですが。
まあそれもよしとしましょう。
しかしまさか自分から折電するとは。
そしてまさかまさか個人的な会話を数分もするとは。
そして終わった後にひとこともないなんて(汗)
何もしてないのに責められたりして超トホホな気分。
にしても、ま〜じか〜‼️とびっくりな診察でした( ̄▽ ̄)
何がつらくしているのか
カウンセリングでは、お話を聞いたり質問したりしながら「何がご本人をつらくしているのだろう?」ということを考えます。
そのうえで「こんなところでつらくなってるのかな?」と仮説を立てることを「見立て」と呼んだりします。
いろんな見立ての仕方がありますが、ひとつのやり方に
●身体的要因:健康的なことが影響してないかな?
●心理的要因:ご本人の心理的な部分はどうだろう?
●環境的要因:周りの環境の影響ってないだろうか?
のように「からだ」「こころ」「しゃかい」の観点から見立てるやり方があります。
子育ての悩みも同じで、すべてが子どもを育てる“親の心の問題“だけに帰属するなんてことは考えにくいわけでして。
いろんな要素が影響しては悪循環を起こしていることが大半です。
あるおかあさんの事例
ちょっと事例でそれを一緒に見ていきましょう。
あるおかあさんの事例です。
仮にハナコさんとします。
ハナコさんは、、、
●子どもが泣きやまないとカーっとなって子どもを怒鳴ったり叩いたりする
●そのときはひどく後悔するが、同じことを何度も繰り返している
●自分がこうなってしまったのは親のせいだと両親を恨んでいる
いかがでしょうか。
こんな話を見聞きした赤の他人でしたら
「虐待だ!」
「ひどい親だ!」
「子どもがかわいそう!」
なんて捉え方をなさる方もおられるのではないでしょうか。
特にテレビなどではこういった”ショッキング“な部分だけを切り取られて報道されることもあって、よりそんな印象をもちやすいのではないでしょうか。
ハナコさんを見立ててみよう
たしかにハナコさんがやっている「行動」は決して望ましいものではありません。私も「そのままでいいよ」なんて言う気はさらさらありません。
でもですね、こんな話を聴いたらどう思いますか?
ハナコさんは、、、
●親元から離れたところに住んでいて手が借りられない
●仮に近くにいても協力してくれる両親ではない
●夫は子どもを可愛がるが家のことは何もしない
●子どもは3歳と1歳ととても手がかかる時期
●特に上の子は我が強くて手を焼いている
●保健師さんに相談したら「でも頑張らないと」と言われた
●腰を痛めているので抱っこがつらい
●最近は子どもの夜泣きでまともに寝ていない
●病院に行くために電車に乗ったら「ベビーカーが邪魔」と怒られた
●すでにいっぱいいっぱいだけど人に迷惑をかけたくないから相談しない
●数日前にスーパーで子どもが商品の果物を食べようとしたので叱ったら「虐待じゃない?」と知らない人に言われた
●精神科に相談に行ったら「母親失格」と言われた
そのほかにもいろいろ…
これを読んでみていかかですか?
このあたりの事情まで分かってくると、「親が悪い!ひどい!子どもが可愛そう!」なんて言いにくくならないでしょうか。むしろハナコさんの大変さを少しは理解していただけるのではないでしょうか。
課題の仕分け
現状には確かに彼女自身の課題が含まれています。
見立てで言えば「心理的要因」に当たると思います。
子どもを怒鳴らないほうがいいし、叩かないほうがいい。
それは小学生でもわかることです。でも「そうしたくないのにそうしてしまう」から悩みなのです。
ではなぜそこまで追い込まれたのでしょうか?
それはさっきのハナコさんの事例をもう一回読んでいただけるとお分かりになると思います。
腰が痛いけど抱っこしないといけない。
眠りたいけどそれがままならなくてつらい。
こういったものは「身体的要因」です。
実家の協力が得られない。
夫が協力してくれない。
「母親失格」の烙印を押された。
公共の場で他者から批判された。
こういったことは「環境的要因」です。
想像してみてください。
こんな健康状態で、こんな環境のなかで生きていれば、大抵の人はつらくなって自然というか当たり前ではないかと思うのです。
特に環境因。
私たち人間は「自分が正しい」と信じがちな生き物です。
つまり批判であれ、非協力であれ、指導であれ、発する当人にとってはそれは「善意」から発されているものなのです。
しかしこの善意が、反対に親を追い詰めることが往々にして起こっています。
●「自分は正しい。あなたが悪い」とみなされる
↓
●周りからの評価を恐れるようになる
↓
●プレッシャーで子育てが「べき」に縛られる
↓
●だけど子どもは思うようにならない
↓
●恐れはいつしか防衛と化す
↓
●防衛は怒りを招き、それが子どもに向けられる
なんとも悲しい悪循環ですね。
「虐待」という言葉による虐待
「虐待は絶対にダメだ!」
「根絶しなければならない!」
「子どもの気持ちを考えろ!」
いずれもスローガンとしてはとても美しいものです。
ほとんどの人が「その通りだ!」とおっしゃるでしょう。
でもそれが言えるのは、先ほどのハナコさんのように親御さんが抱えている”事情(背景)“を知らないからではないでしょうか。
できることなら私だって虐待はなくしたいです。
支援する身としてもそうだし、自分の育ちを振り返ってもそうだし、それがどんな影響を子どもたちに与えるかを痛いほど知っています。
でもね、
「虐待するもの=悪」
とみなして排除してもそれは何の解決にもならないんです。
何より、子どもが望んでいるものは
「ひどいことをしない人」ではなく、
「ひどいことをやめた”親“」なのですから。
すべての親の事情を理解して!なんて言う気はありません。
でも、表面的には「ひどい親」だとしても、そうなるだけの「背景」が何かあるのかもしれないね、くらいの目を持ってもらえたらうれしいのです。
特に願うことは、「虐待」という言葉を安易に使って欲しくないということ。
さっきのハナコさんのスーパーでの言葉もこれでした。
クライエントさんからも、子どもを注意したり叱っただけで「虐待」と言われた、なんてことをたびたび聞きます。
虐待の正しい認識も持たない方から発される
「やさしい親=いい親」
「叱りつける親=よくない親」(虐待)
というステレオタイプな見方は親を追い詰めはしても助けにはなりません。
(ちなみに過保護は「優しい虐待」というんですよ)
多くの親御さんが
「虐待していると思われたらどうしよう」
という怯えを抱えています。
それが見えないプレッシャーとなり、叱るべき場面で叱れなくなっています。
正すべきを正されなかった子どものエゴは肥大します。
するとより叱る(諌める)べき場面は増えます。
でも叱ってしまうと「虐待と思われる」という恐れが出てきます。
これがあるときピークを迎えます。
爆発という結果に至ってしまうこともあるでしょう。
これは周りが安易に「虐待」と発することで本当の虐待を引き起こす遠因になったケース、と言えなくもありません。
Not knowingの勇気
ハナコさんは確かに課題を抱えています。
子どもとよりよくかかわるために乗り越えないといけない壁はいくつもあります。
だからこそ、環境因であるわれわれがそれを非難するのではなく、プレッシャーを減らす役割を担えたらどんなにいいだろうと思います。
そのためには環境因である私たちにとってすごく大切なことがあります。
それは
「知らないことは知らない(分からない)」
を認める勇気です。
ハナコさんの事例でもそうですが、表面的な部分だけでは彼女の苦悩の理由がわかりませんでした。
だけど他者である私たちが「分かっているつもり」になると、彼女が現状に至った事情や背景を知ろうとはしません。
知らないままに他者から発される「虐待」という言葉は、子育てする親にとってはとてつもない破壊力を持っている言葉です。
いろんな場で親が子どもを怒鳴ったり叩いたりしている場面に遭遇することもあるでしょう。
そんなときに、その人の事情まで理解してほしい、なんて無茶なことは望みません。嫌な気持ちになるのも当然です。(私もなりますから)
だけど、たったひとつ、
「ああする事情があるのだろう。だけどそれがなにかを私は知らない」
と自分が知らないことを認めてほしいと願っています。
もしそれが近しい存在の方であれば、
「知らないから、知るためには聴くしかないね」
と聴いてくれる存在にまでになってもらえたらバリバリうれしいです^^
「子どもは社会で育てるもの」という言葉があります。
でも子どもにとって大切なのは親です。
社会がその親をサポートできる環境になるよう、今の自分にできることをこれからもやっていきます。
でも一人でできることはあまりに少なく、小さい。
よかったらあなたのお力もお貸しください!