トラウマを抱えた引きこもり者たちは、自滅へと衝き動かされる
自信がないことに自信があるのか・・・
アディクション(嗜癖)というものは、
「はまる」といった行為ですが、
まさに何ものかにとり憑かれたような状態にあります。
かねて接している若者たちは、
自分をおとしめることにとり憑かれているようです。
いずれ劣らぬ自己否定材料の収集家です。
「自分なんかダメなんです」と吐き出すのみで、
少しでも自信をもてるようになるための努力をするかというと、
全くその逆で、ますます自堕落な生活を送る。
「人に迷惑をかけていても努力ができない自分はダメ人間です」
とさらに自分を否定します。
自分勝手な自分、怠惰な自分、弱虫な自分、
心配をかけている自分、感謝できない自分、
逃げる自分を徹底的に否定します。
傍から見ていますと、痛々しいほど自虐的です。
いわれなき罪悪感にあえぐ子どもたち
こういった若者たちの根底にあるのは、罪悪感です。
周囲(特に親)の期待に応えられなかったという罪悪感です。
私たち親は、さまざまな期待をわが子に寄せます。
「期待」というとい聞こえはいいですが、
我欲であることが多いようです。
自分が果たせなかったことを託すとか、
自分の見栄のためにさせるとかというものです。
そんな期待にも、子どもたちは懸命に応えようとします。
また、子どもたちの方でも、親の意に反し、
勝手に期待を読み取ってしまう場合もあります。
身内の集まりで、小さいころから「長男だから・・・」と
言われることで、過剰に長男という役割を演じようとした
青年もいました。
一族を背負っていくというような勢いで
求められていない期待にまで勝手に応えようとしたのです。
ある青年は、親のことを
「勝手に期待して勝手に絶望するのは勘弁してほしい」
と言っていました。
周囲の期待に応えられない自分を
「期待を裏切ったダメな子」
「親を絶望させた悪い子」
という風に感じ取っています。
こういった罪悪感が根底にあり、その罪悪感にみあった自分を
無意識に演じます。
さらには、その根拠となる状況を揃えだすのです。
それが、努力をしない、積極性を出さない生き方の
スタイルとなります。
否定されるに相応しい自分をつくりあげます。
自信のもてる成長した自分は、自分らしくないのです。
誤った自分らしい生き方
彼らに自信をもたせるための訓練を実施していく時に
苦慮するのが、日々の体験を通して認識を広げさせたり、
新たな価値観を提供しようとしても、
なかなか自分の身に置き換え、過去の経験とすり合わせて
習得することができないでいるのです。
なぜなら、
これまでの罪悪感を抱えている自分に相応しくない、
自分らしくない、主体的で発展的な取り組みは、
ことごとく無視してしまうからです。
「周囲の期待に応えられず、信頼を裏切るような自分は、
成長なんてできない」
この勘違いの道理が現在の彼らの行動を規制するのです。
こういった意味でも自己認識というものは、
とても重要なのです。
人は、自己認識に相応しい態度や生き方を
してしまうからです。
あらゆる行動の規制に影響を与えるものに、
普段の日常生活の中でのなにげない
親からの「禁止令」といったものもあります。
例えば、
親自体が未成熟な場合、自分に自信がない分、
いつまでも子どもを自分に頼らせようと仕向けます。
常に上位にいたいからです。
そうすると、子どもは「成長してはいけない」
「親より成果を出してはいけない」といった意識をもちます。
また、心配性で過保護な親の場合、
新たなことに取り組ませることを控えさせたり、
「危ないから」「どうせうまくいかないから」と、
否定的な結果を想定することが多いため、
子どもは「実行してはいけない」と消極的になります。
「言う通りにしていればいい」「言い訳するな」
と支配的な言葉かけが多いと、
子どもを「自分で考えてはいけない」という気持ちに
させてしまいます。
これらのことから、彼ら、彼女らの自虐的な自己認識が形作られ、
それを証明するかのような生き方を選んでしまうのです。



