東洋医学とは何か 59 戦後の日本は国家医療資格が細分化 医業類似行為者の取扱に苦慮
◇東洋医学とは何か 82 薬草治療(漢方薬治療)とは何か(4) 処方した薬草が適応となる病態の把握方法が未体系なため西洋医学に基づく病名に利用困難 保険が取り扱い出来る漢方薬は成分が決定しているため個々人の体質に合わせた処方に不向き 薬草治療は問題が山積◇
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にする事を目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
東洋医学は、当院で行っている鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療、養正治療と薬草治療で構成されています。79回目から、薬草治療について書き始めました。私は、薬を扱うことが出来る医師や薬剤師ではありませんので、薬草(生薬)に関する歴史(医学史)研究をしている立場で、書いています。
79回は、日本における薬草治療の現状について書きました。日本では、1884年(明治時代)に薬草治療が途絶え、1985年に漢方薬が保険調剤となったものの医学部で薬草(漢方薬)の教育がされるようになったのは2000年以降だという話です。つまり、薬草治療を行ってきた歴史は長いものの、近年においては、教育が十分行われておらず、研究も進んでいないため、江戸時代末期の様な高い水準の医療にはなっていないという話でした。
80回は、中国における薬草治療の現状について書きました。中国では、中華民国建国時の1912年に薬草治療が途絶えましたが、中華人民共和国建国(1949年)5年後の1954年に、43年ぶりに国家医療となりました。1644年の清朝に途絶えた按摩治療、1801年には消滅していた接骨治療、1822年に禁じられた鍼灸治療も、中国伝統医術(TCM)として復権したという話です。
81回は、生薬の組み合わせが天文学的であり、未だ使いこなすには至っていないという話でした。
中国医学では、1に鍼治療、2に灸治療、3に薬草治療という考えがありますが、灸治療は唐代にはすでにあまり行われておらず、鍼治療も10分の1程度で、殆ど薬草治療が行われていました。漢の時代に整備された薬草治療は、長い間、中国国内で主要な医療です。
しかしながら、中国の薬草治療は、欧米では食品扱いであり、世界的には医療と認められているとは言えません。中国、韓国や日本で使用されていますが、まだまだ十分に研究されておらず、治療法として確立されていません。医師の立場からすると、病気に対する治療法が確立されていないので、薬の選択が出来ないと言えます。
今回は、漢方薬にはどんな薬があり、どんな人に使用しているのかについて、書きます。前回以上に知らない言葉が沢山出てきて、眠くなると思います。ご興味がある人以外ご覧戴いていないと思いますが、楽しんで頂けると幸甚です。
薬草治療の材料を生薬(しょうやく)と言います。別名本草(ほんぞう)と言い、過去に書かれた本草書について、前回(東洋医学とは何か81)説明しました。日本では、生薬が2つ以上入っていると「薬」の扱いです。薬局へ行くと「せんぶり」や「げんのしょうこ」等売っていますが、薬草は一つだけですので、薬の扱いではありません。それらは、「民間薬」と言います。2つ以上混ざっていると、薬名が付きます。日本では、「補中益気湯」や「柴胡桂枝湯」等を総称して、漢方薬と言います。漢方薬と言い始めたのは、明治時代からです。
2つ以上を混ぜて飲む方法は、太古の時代から行われています。その処方を書き表した本が、昔からあります。
中国では、いくつかの生薬に水を入れ、火にかけて煎(せん)じて作ります。そのため、「煎じ薬(せんじく(ぐ)すり)」とも言われ、日本でも今なお使われます。中国では、「湯液(とうえき)」と言われます。煎じ薬の他に、粉末(ふんまつ)にした、粉薬(こなぐすり)があります。それを、「散剤(さんざい)」と言います。また、煉り薬(ねりぐすり)もあります。それを「丸薬(がんやく)」と言います。それらを総称して「方剤(ほうざい)」という言い方をします。
ちなみに、日本では「薬を飲む」と言いますが、中国では「薬を食べる」と言います。文化の違いは面白いと思います。
薬草治療のことを、明治以降日本では漢方薬治療と言いますが、中国では湯液治療と言います。漢方という言葉は、近年日本で使われた言葉ですので、世界の共通語ではないという事を知っていただきたく思います。
古くは、『五十二病方』という中国で見つかった最古の書物に書かれています。戦国時代のものと思われますので、紀元前から処方して病気に対応してきたことがわかります。
処方が書かれた本で、最も基本となる本は、『傷寒論』です。以後、代表的な本を列記します。湯液治療に関する本は、膨大ですので、ご興味がある方は、他の本も調べて戴きたく思います。初心者には、私の恩師である川井正久先生が翻訳した『中国医学の歴史』(傳維康著 東洋学術出版社 1997)がお勧めです。
①成立年代不詳 紀元前・戦国時代 『五十二病方』 著者不明
②200~210年(後漢末期) 『傷寒雑病論』 張仲景編纂 散逸 2冊になり後世に伝わる
1)『傷寒論』 西晋 王叔和(おうしゅくか)収集・整理 その後の時代に追補
2)『金匱要略』 北宋時代 『傷寒雑病論』の要約本である『金匱玉函要略方』が発見され、宋代に『金匱要略』と命名して刊行 張仲景が書いた『傷寒雑病論』の一部(『雑病』部)
③317年 - 340年頃(東晋) 『肘後備急方』 葛洪(かっこう・281-341年)編纂
※陶弘景(とうこうけい・456-536)再編
④610年(隋代) 『諸病源候論』 単元方(たんげんぽう)編纂
⑤652年(唐代) 『備急千金要方』30巻 孫思邈(そんしばく)編纂
※医学総論、本草、製薬、婦人科、小児科、内科、外科、外毒、備急、養生、脈診、鍼灸、導引などを網羅している
⑥682年(唐代) 『千金翼方』30巻 孫思邈編纂
※『千金要方』を加筆 傷寒論の一部を編入した
⑦752 年(唐代) 『外台秘要』 王燾(おうとう)編纂
※六朝から唐代にかけて用いられていた薬の処方を集めたもの
⑧992年(宋代) 『太平聖恵方』100巻目録1巻 計101巻 宋政府編纂
※宋政府が諸家の医方を蒐集して編纂したもの
中国では、1~3世紀には本草書が存在している事(東洋医学とは何か81参照)から、病気に対して医師が様々な生薬を組み合わせる治療をしていた事が分かります。その処方内容は、紀元前から時代毎に編纂され、後世に継承されて来ました。
それらの内容を細かく見ると、『傷寒論』を最も重視して来た事が分かります。
『傷寒論(しょうかんろん)』という本は、張仲景(ちょうちゅうけい)が書きました。仲景は字(あざな)です。本名は、張機(ちょうき、150年 - 219年)です。傷寒は様々意味で捉えられますが、簡単に言うと「流行り病」の事です。張仲景は、「傷寒(流行り病)」で多くの一族を失った(200人いた親族のうち3分の2が10年間のうちに疫病によって死亡し、7割が「傷寒病」だった)と言っています。張は、「従来の処方を試してみたが、悉く効かなかった」と述懐しています。傷寒は、チフスと訳されることもありますが、今で言えば新型コロナウイルスと言えるでしょう。
張仲景の功績は、その経験をもとに、ある程度決まった病態に対して、効果がある薬を考え出したことです。「決定処方」と言われる手法です。病気を見てから処方を考えるのではなく、ある程度の薬を作っておいて、効きそうな薬を飲ませる方法です。今でこそ当たり前なこの方法は、当時の考え方からすると、画期的だと言えます。当然、当時の多くの医者から批判の的になりますが、後世この本に書かれている薬が主体となり、その後宋の時代に至るまで、この薬に関する研究が中心であったことを見ても、中国国内における影響の大きさが窺えます。
張仲景は自序に「傷寒と雑病について書いた」と言っている事から、近年『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』と言われていますが、現存しません。後に傷寒の部分は、『傷寒論』、雑病の部分は『金匱要略(きんきようりゃく)』と言われる本になりました。『金匱要略』は、『傷寒論』と重複しない「雑病・方剤・婦人病」の部分だけを取り出して作られた本です。書名や内容の変遷に関しては、膨大な文字数が必要ですので、興味がある方は、ご自分で調べて戴きたく思います。生薬処方における主要な本であり、近年はネット環境が発達していますので、容易に情報を得ることが可能です。但し、論文等に引用する際は、しっかり原典を見て戴きたく思います。
張仲景が考えた「決定処方」が浸透して行くに連れ、その病態把握方法が継承されます。その病態把握は、鍼灸治療をする際の考え方を引用したものであるため、適切ではないと私は考えています。これについては、後ほど述べます。また、病態を把握してその病人に合った処方をする医者が減少して行ったのではないかと考えます。
日本の国宝『医心方』30巻は、984年針博士丹波康頼より、朝廷に献上された日本に現存する最古の医学書です。唐代までの中国で行われて来た処方が書かれていますが、日本では、『傷寒論』が伝わっていなかったため、医心方の内容を見て、『傷寒論』が大きな影響を与えている事は知らなかったようです。この本の存在が知られるようになったのは江戸時代になってからです。後に、「古法派」と言われる学派が形成されます。薬草治療をしている日本の医家が、複雑な様相を呈しているのは、この事が大きな理由の一つだと思われます。日本の医家については、次回以降に書く予定です。
中国では、宋の時代(960-1127)に活版印刷技術が発達します。それに伴い、文人(ぶんじん)中心の政府である宋政府(多くの歴代王朝は武人(ぶじん)が中心。宋は、文化人が中心だったため、文化に力を入れた)は、歴代の書物を、活版印刷にして、大量に書物を流通させました。その際、製作工程に関与した林億(りんおく)らは、本の内容の順番を入れ替えたりしました。この事は、一般的に「宋改(そうかい)」と言われています。宋改は、多くの人に学ぶ機会を与えましたが、文字の入力間違いや順番を入れ替えた事により、時代が不明になる、意味が不明になる事を引き起こしました。多くの研究者たちは、そのことを指摘していますが、その間違いを、後の人がまた書物に書き残しています。中国人の能力と根気良さには頭が下がります。
金元時代(1127-1367)になり、その流れが少し変わります。
金は北方の異民族です。元は蒙古民族です。いずれも、漢民族ではありません。金元時代は、特異な文化が起こり、医学の面でも革新が起きました。この時代を「金元医学(きんげんいがく)」と呼んでいます。中国の長い歴史の中で、漢医学の次に訪れた変革期です。ちなみに、3回目は国家医療として復活した中華人民共和国建国後の1954年~1960年頃です。現在、TCM(中国伝統医学)と言われる医療です。
金元医学の特長的な点は、学派が出来たという事です。それまでの統一的な考えから、個人が主張する学説が重んじられたという事です。今にしてみると当然のような話ですが、君主制度において、科挙試験に合格して医師として医療を行う上では、統一した考えが必要です。唐代(618年 - 907年)には、隋に始まった科挙制度がしっかり根付いていましたから、宋代(960年 - 1279年)でもそれは同じです。その考え・習慣を破ることは、大変なことだったと思います。日本で言えば、明治維新後自由な思想で生活して良いとなったような感じでしょうか。
金(1115年 - 1234年)時代の代表的な医者は、2人います。一人は、劉完素(りゅうかんそ・1120-1200)です。病気は火熱が多いという「火熱論」を展開し、その治療法は、寒涼剤を多く用いた事から、「寒涼派」と言われました。劉完素は、激しい感情の変化が熱を発する病気の重要な要因と考え、心臓や腎臓の調整を訴えました。この考えは、後世に大きな影響を及ぼします。
もう一人は、張従正(ちょうじゅうせい・1156-1228)です。「汗・吐・下」という発汗・嘔吐・瀉下の三法を行う「攻邪論」を唱えました。病毒の排出を図るため、下剤を多く用いたので、「攻下派」と言われました。日本でも、この方法は良く用いられます。
元(1271年 - 1368年)時代の代表的な医者は、2人います。一人は、李杲(りこう・1180-1228)です。脾と胃を補うことが大切とする「脾胃論」を唱えました。その治療法は「温補派」と言われました。李杲の字は「東垣(とうえん)」と言い、「東垣十書」の1つである「脾胃論」に基づいて創製した「補中益気湯」は、日本でも良く用いられている漢方薬です。明の時代になり、「温補派」の考えが日本に伝わり、日本の薬草治療に大きな影響を与えました。
もう一人は、朱震亨(しゅしんこう・1281-1358)です。字は丹渓(たんけい)と言います。李杲の弟子で、「相火論」を唱えました。「滋陰降火湯」を考案し、「養陰派」と言われました。朱震亨は、劉完素、張従正、李杲の考えを取り入れた上で、中庸(ちゅうよう)を保持することの重要性を説きました。中庸とは、「程よさ」を意味します。この考えも、今の漢方医学に大きな影響を与えています。
金元時代に現われた4つの学派は、その後大きな影響を与えました。詳細は、コラムの性質上割愛致します。その後は、大別すると
1.病気に応じて生薬を駆使して処方する
2.『傷寒論』や『金匱要略』を主体に処方する
3.「火熱論」・「攻邪論」や「脾胃論」・「相火論」を主体に処方する
という流れになったと考えます。4人の考えは、鍼灸治療にも影響を与えましたので、鍼灸師の皆様で興味を持たれた方は、掘り下げて知っていただきたく思います。
明や清の時代は、この流れに大きな変化はなく、1911年の中華民国建国時に、国家医療から姿を消しました。日本では1844年に国家医療として用いられなくなりました。その要因は、病態を分析する方法にあると考えています。陰陽論を背景とした恣意的な考えを、一環として理論の中心に置いたため、処方箋との一致を図ることは困難です。また、そもそも、この考えは、鍼灸治療をするための理論である為、論理性に欠けていたと考えます。中国・日本両国の国家医療から姿を消した事実が、その事を裏付けています。
薬草治療は、処方した薬草が適応となる病態の把握方法が未体系なため、西洋医学に基づく病名に利用することは困難です。保険が取り扱い出来る漢方薬は、『傷寒論』や『金匱要略』に基づく「決定処方」(病人に関係なく、決まった薬)です。成分が決定しているため、個々人の体質に合わせた処方に不向きです。薬草治療(漢方薬治療)は、医療現場で用いるためには、問題が山積していると言えます。
次回は、薬草治療と鍼灸治療を行う際の理論の違いについて、述べたいと思います。
いかがでしたでしょうか。今まで以上に、ややこしくて難しかったのではないでしょうか。頑張って、やさしく、分かりやすく書きましたが、難解さが解消できなかったかもしれません。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回も、お付き合いの程を、よろしくお願い致します。
令和4年(2022年)8月28日(日)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。