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清野充典

東洋医学と西洋医学の融合を目指す鍼灸師・柔道整復師

清野充典(せいのみつのり) / 鍼灸師

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コラム

東洋医学とは何か 80  薬草治療(漢方薬治療)とは何か(2) 中国では中華民国建国時の1912年に薬草治療が途絶えました 中華人民共和国建国(1949年)5年後の1954年に中国伝統医術(TCM)が復権 薬草治療は43年ぶりに国家医療となり132年ぶりに認められた鍼灸治療とともに復活を果たしました

2022年6月26日 公開 / 2022年9月6日更新

テーマ:東洋医学とは何か

コラムカテゴリ:医療・病院

コラムキーワード: 東洋医学鍼灸治療

◇東洋医学とは何か 80  薬草治療(漢方薬)とは何か(2) 中国では中華民国建国時の1912年に薬草治療が途絶えました 中華人民共和国建国(1949年)5年後の1954年に中国伝統医術(TCM)が復権 薬草治療は43年ぶりに国家医療となり132年ぶりに認められた鍼灸治療とともに復活を果たしました◇

 こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。 

 清野鍼灸整骨院HP  http://seino-1987.jp/

◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆

 私は、「鍼灸を国民医療」にする事を目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。

 東洋医学は、当院で行っている鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療、養正治療と薬草治療で構成されています。これまで、78回にわたり、古代から終戦(1945年)までの鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療について書いて来ました。前回から、薬草治療について書き始めました。私は、薬を扱うことが出来る医師や薬剤師ではありませんので、薬草(生薬)に関する歴史(医学史)研究をしている立場で、書き進めます。

 前回は、日本における薬草治療の現状について書きました。日本では、1884年(明治時代)に薬草治療が途絶え、1985年に漢方薬が保険調剤となったものの医学部で薬草(漢方薬)の教育がされるようになったのは2000年以降だという話です。つまり、薬草治療を行ってきた歴史は長いものの、近年においては、教育が十分行われておらず、研究も進んでいないため、江戸時代末期の様な高い水準の医療にはなっていないという話でした。

 薬草(漢方薬)に関する書物は、漢文です。現在、漢文を読みこなす力は、医師のみならず、日本国民にとって難しいと言えます。しかも、薬草に関する書物は膨大です。鍼灸に関する書物の10倍以上あります。生涯通じても、全ての書物に目を通すことは難しいでしょう。医師が学ばなければならない学問は膨大です。その上で薬草(漢方薬)についてまで学ぶことは、かなり困難性が高いと思います。まずは、医学部学生の時に、十分な基礎知識を得るための教育水準を整備するところから始めないといけない段階です。
 
 日本の薬草治療は、日本古来の方法と中国から伝来して来た方法があります。中国での歴史は、日本以上に長く、貴重書がたくさんあります。日本で行われて来た医術に加えて、中国で行われてきた医術を学ぶことは、気の遠くなる作業です。薬草治療を使いこなすことは、実に高いハードルです。

 中国医学では、1に鍼治療、2に灸治療、3に薬草治療という考えがありますが、灸治療は唐代にはすでにあまり行われておらず、鍼治療も10分の1程度で、殆ど薬草治療が行われていました。漢の時代に整備された薬草治療は、長い間、中国国内で主要な医療です。

 しかしながら、清朝が滅び中華民国が誕生した1912年には、薬草治療が禁じられました。北洋政府は、中国医術の廃止を選択しました。薬草治療が国家の医療として復活したのは中華人民共和国になった1954年です。鍼灸治療とともに復活したのは、政治的な意図があっての事で、医療として認められたとは言い難いところがあります(詳しくは東洋医学とは何か70をご参照ください)。現に、中国の薬草治療は、欧米では食品扱いであり、世界的には医療と認められているとは言えません。中国、韓国や日本で行われていますが、まだまだ十分に研究されておらず、治療法として確立されていません。

 1912年における中国国内では、西洋医学を学ぶ人たちの考えが強く、「中国医学絶滅思想」が大半を占めていました。明治2年(1872年)に日本政府(明治政府)がドイツ医学を中心にする方策を決めた時と似ていると言えます。ただ、その経緯は、日本とは異なります。

 中国の明・清の時代は、度々貿易の制限をしていました。海禁(かいきん)と呼ばれる領民の海上利用を規制する政策のことです。海禁の説明は膨大な量を必要としますので、ご興味がおありの方は、ネットで「海禁」と入力してお調べ戴きたく思います。時には、海賊の取り締まりにも用いられた政策です。日本の倭寇(わこう)が関係しておりますので、現在の尖閣諸島問題と時を隔てて双方同じことをしているのかもしれません。(ちょっと意味合いは違うと思いますが、、、)
 
 中国に西洋医学が齎されたのは、1568年にポルトガルの宣教師メルキオル・カルネイロ(Melchior Cameiro)がマカオに教会病院を建設したときです。日本に西洋医学が初めて齎されたのは、ポルトガル船が種子島に漂流した1543年(天文12年)8月25日ですので、その25年後の事になります。1582年にはイタリアの宣教師マテオ・リッチ(Matteo Ricci)が初めて西洋医薬を齎しました。1693年には、フランスの宣教師ジャン・ド・フォンタニー(Jean de Fonntaney)が瘧疾(マラリア)に罹患していた清の第4代皇帝康熙帝に西洋薬を献上し、その薬で治癒しました。これまでの時期は、第1次西洋医学伝来期と呼ばれています。康熙帝は、さらにフランスの宣教師が齎した西洋薬で心臓病と上唇のコブが治癒したにもかかわらず、この後まもなく、鎖国政策を行いました。西洋の文化がすぐれていることを認識したにもかかわらず文化の流入を拒否したのは、大国を維持するための保護政策です。それでも、すぐに文化の流入が止まるわけではありません。宣教師たちは、16の省に分散して、秘密裏に活動していましたが、1810年には宣教師の数が31人に減少しています。

 清の第6代皇帝乾隆帝の時代には、1757年に外国の宣教師に対して厳しい取締を行い、その後、西洋医学のみならず西洋の学術一般の禁止へと拡大されました。70年から80年に及ぶ文化の断絶を経て1840年から1842年のアヘン戦争を迎えます。

 康熙帝や乾隆帝の時代は、清の力が強く皇帝の権力も安定していた時代でしたが、外へ目を向けなかったことが、この後の列強各国による侵略を許すことへと繋がったと言えます。イギリスのジェンナーが発明した牛痘接種法は1805年に伝わりましたが、中国医学に影響を与えなかったことを見てもわかります。この時期を、中国では第2次西洋医学伝来期と呼んでいますが、実際はアヘン戦争終了後に本格化します。

 1842年以降は、宣教師や医師の入国が容易になり、一気に西洋文化が流入しました。1842年から1848年の6年間で、広州、廈門(あもん)、寧波(にんぽう)、上海、福州の5つの貿易港すべてに、西洋医学の病院や診療所が建設されました。1866年には、広州に博済医学校が外国教会によって設立されました。1888年には蘇州病院医学校、1896年には上海聖約翰学院が医学部を併設しました。1897年には2988人の卒業生がおり、194人の在校生がいました。1905年には、全中国に建設された教会病院は166箇所、診療所は241か所に達しました。
 辛丑条約(しんちゅうじょうやく)※1が結ばれた頃の1900年から1915年の間に、中国で設立された教会医学校は23か所、看護士学校・薬学校・助産学校等は36か所です。その中には、1911年に日本人が奉天(現在の瀋陽)に開設した南満医学堂が含まれます。1913年に在籍していた学生は500人を超えています。1912年に建国した中華民国は、西洋医学一辺倒に傾いていたことがわかります。

※1 辛丑条約とは…1901年9月7日、義和団事変※2処理のため、清と出兵したイギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国とベルギー・オランダ・スペインの11ヵ国との間に結ばれた条約。北京議定書ともいう。清はドイツ、日本への謝罪使の派遣、排外運動の禁止、関税、塩税を担保とする 4億5000万両の賠償金支払い、北京における公使館区域の設定と外国軍隊の常駐、北京周辺の砲台の破壊などを認めさせられた。財政的にも列強への従属を余儀なくされ、中国の半植民地化はいっそう深刻化した。
※2 義和団事変とは、1899~1900年、清朝末期におきた反キリスト教的排外運動。 義和団が生活に苦しむ農民を集め、清朝の保守派とも結びついて勢力を拡大し、各地でキリスト教会や外国人を襲い、北京に侵入して列国大公使館区域を包囲攻撃した事変。 日本は、最大となる8000人の兵を投入した。

 1644年の清朝には途絶えた按摩治療、1801年には消滅していた接骨治療、1822年に断絶した鍼灸治療とともに、薬草治療は時代の波に押されて1912年にかき消されたことがわかります。

 1954年に復活した薬草治療は、現代医学の導入を余儀なくされましたが、鍼灸治療とともに弁証論治という整合性のない理論での処方をしています。TCM(中国伝統医術)は、薬草治療においても、未発達な状況です。300年近く前から、伝統医術が徐々に衰退していた中国国内では、今でも、伝統医術に大きな目は向けられていません。中医学院や中医薬大学は各省にありますが、民間の開業医は全くないと言って良く、いまだ西洋医学一辺倒の印象です。日本以上に伝統医術を取り巻く環境は、厳しいと言えます。

 しかしながら、日本の江戸時代後期から明治元年の1868年までに行われていた薬草治療は、医療として高水準にありました。その頃清で行われていた医療も同様だと思われます。日本と中国は、両国の鎖国政策とは関係なく、さかんに交流していました。私は、薬草を処方する立場にありませんが、その当時行われていた医療の研究をする必要があると思っています。

 次回からは、もう少し時代をさかのぼり、薬草治療について考えたいと思います。

令和4年(2022年)6月26日(日)
 東京・調布 清野鍼灸整骨院
  院長 清野充典 記

清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。

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