東洋医学とは何か 65 鍼灸治療は410年頃に中国大陸より伝来 701年に出来た日本初の医制「医疾令」では 「針師」は外科治療を行う医者であった 針師を教育する人は針博士と言われた
◇東洋医学とは何か 75 中国伝統医術(TCM)の刺鍼技法は日本伝統医術(TJM)の刺鍼技法の一部を導入して1960年に再構築されました 治療効果も一部の病態に限定されています 鍼触・鍼妙・鍼響を大切にする日本の繊細な鍼治療技術は世界の模範です◇
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話10回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療、68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、69は明治時代の医療制度制定について、70は中国における太古から1960年頃までについて、71は中国で1960年に誕生した中医学(TCM)成立までの経緯について、72は中医学(TCM)とは何かについて、73は中国に伝わった日本の鍼灸技術がどの様に教育されているかについて、74は中国で行っている鍼術の技法についてでした。75の今回は、中国で取り入れた日本の鍼術に関してです。
前回は内容がとても専門的でしたが、最後までお読みいただいた方に感謝申し上げます。今回も、専門的です。
何で、わざわざ専門的なことをコラムにしているのかというと、日本の鍼灸治療は、中国はおろか世界のどの国よりも進んでいるということを伝えたいので書いています。北京中医学院(現北京中医薬大学)、上海中医学院(現上海中医薬大学)、遼寧中医学院(現遼寧中医薬大学)を始め、中国へは留学時代を含め10数度行きました。韓国、台湾、シンガポール、タイ、ベトナムやオーストラリア等の近隣諸国をはじめ、フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、ブルガリア等のヨーロッパ、アメリカやカナダの北米、メキシコ、ニカラグア等の中米等々、世界中の国々へ100回以上訪問し、世界における鍼灸治療の実情を長年にわたり調査して来ました。これまで学んで来たことや体験して来たことを、齢60歳を過ぎましたので、後進のために少しでも伝えておこうと思い、コラムを毎月こつこつ書いています。世界の鍼灸事情にご興味がある方は、清野鍼灸整骨院ホームページ seino-1987.jp 内の「東洋医学の辞書サイト」→「日本から世界へ」をご覧いただきたく思います。
(ここから先は前回と同じ内容です 初めてこのコラムをご覧の方はお読みください)
中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われて来ました。1822年に、清王朝の道光帝は、侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。
中国人は、鍼灸医術の復興を目指し、日本の医術を学びに来ます。その中心人物は、1934年から1935年にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査した承淡安(しょうたんあん)です。彼は、東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取りました。中国に帰った後、日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。
1956年になり、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が出来、鍼灸医術は、正式に国家医術として復活しました。初代校長となった承淡安の教育方針は、その後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になりました。
(今回のコラムはここからが新しい内容です)
承淡安は、1955年に「直下進針法」を紹介、1957年に「押手進針法」を紹介しました。どちらも、皮膚に置いた針を切皮(せっぴ)する方法です。承淡安は、皮下に刺入してから行う操作を、以下の4つに分類しました。
1.興奮針法、2.抑制針法、3.反射針法、4.誘導針法 この方法の詳細は前回紹介しました(2021年12月29日掲載 74)。4つの方法は、いずれも、針を刺した後、響きを与える方法です。承淡安は、日本に留学した際、日本に多くの刺鍼法があることを学びました。日本には針管(しんかん)という針を入れる管を用いる方法があります。この方法は中国にない方法です。管鍼法(かんしんほう(ぽう))を考案した杉山和一は、96の技術を残していますが、承淡安は、針管を用いた方法(管鍼法)は導入しませんでした。何故導入しなかったかはわかりませんが、中国に持ち帰っても受け入れられないと思ったのかもしれません。
私なりの推測ですが、針管は、
(1)盲人が安定した鍼術を行うために開発された道具
(2)針を刺す時(切皮する時)の痛みを軽減するための道具
(3)針管を用いた鍼治療は操作性が困難
です。
(1)の推測理由 承淡安は晴眼者です。そのため、必要性を感じなかったかもしれません。
(2)の推測理由 針を刺す時の痛みを中国人はあまり気にしません。当時は、農民が多く、皮膚も日本人に比べ厚い人が多く、細い針は曲ってしまうため好まれませんでした。そのような理由から、細い針を用いて針管を使う方法(管鍼法)は導入しなかったのではないかと考えています。
(3)の推測理由 中国で行う太い針を用いて刺す撚針法(ねんしんほう(ぽう))は、操作が簡単です。しかも、押手を使いません。操作に手先の器用さを必要とする管鍼法は、鍼治療を行う中医師育成の妨げになると考えたかもしれません。
番外編の解釈ですが、もしかしたら、針管が日本独自の道具なので、日本を敵対視していた(日本と戦争をしていた)中国共産党が支配する国内で、承淡安は採用しにくかった(言い出しにくかった)のかしれません。
1990年代以降、中国人にもホワイトカラーの人が増え、細い針が好まれる様になりました。それに伴い、日本の針管を用いた鍼治療を行う中医師が増えてきました。また、使い捨ての針(ディスポーザブル針)が主流になり、針管と針が一体となった製品が流通するようになったこともあり、多くの中国人が、今では、何の抵抗もなく針管を使って、治療を行っています。カップラーメンが日本発祥の食品だと分からない外国人が多くなっているように感じますが、針管も日本発祥の道具であると分からない中国人もいるのではないかと思っています。現在の中国は、「鍼灸治療は中国が発祥であり、鍼灸治療を行っている国々は、中国のために鍼灸治療を発展させてくれた」という事を公言しています。中国国内の技術や学問における発展が停滞している状況を、政治的に解決しようとしています。この論法で行くと、「針管は中国のために日本人が開発してくれたから、今は使っても良い」という考えになります。そのため、日本初の鍼灸治療技術はどんどん取り入れる傾向にあります。
ただし、日本で行っている「管鍼法」を理解して「針管」を使用している中医師は皆無に近いと思います。何故なら、針管や押手を使った技法の教育をしていないからです。そのため、針管は使っていますが、技法の面では似て非なる方法です。このことは、中国伝統医術(TCM)の教育だけを受けた世界中の臨床家にも共通しています。
承淡安が来日した頃、日本では杉山和一が著した96の技法や日本国内の技法等をいくつか組み合わせて名称も変更し、17の技法にして伝えています。柳谷素霊は、1959年(昭和34年)2月に死去しました。その直後の3月5日に出版された『鍼灸の科学 実技篇』(医歯薬出版(株)発行)は、私が在学していた鍼灸学部(明治鍼灸大学・現明治国際医療大学)の教科書でした。今でも学校協会が作成した教科書『鍼灸実技基礎編』で、同じ17の技法が教育されています。
承淡安は、日本の手技・手術(手の術の事)の中で、針管を使った技法以外の技法も削除し、8つの技法を中国に伝えています。それは、①単刺術、②旋捻術、③雀啄術、④屋漏術、⑤置針術(即留針術)、⑥間歇術、⑦振顫術、⑧乱針術です。日本で行っている鍼技術に着目したものですが、8つの方法は、承淡安が提唱した4つの技法である
1.興奮針法、2.抑制針法、3.反射針法、4.誘導針法
を行う時の手技を補うためです。
以下、8つの方法について、中国語の文献を翻訳し、少し説明を加えます(『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)に書かれてある承淡安の技法に関する説明文の中国語翻訳は、原文に忠実ではないと思われる部分があるため(手技の解釈が異なるため)、清野の解釈で修正を加え以下に記します。)。そのあと、清野が解説を加えます。
(ここから先は、鍼灸師以外の方には、専門的で難しい内容です。興味がない方または読み続ける事が難しいと思われた方は、⑤以外読み飛ばして戴いて結構です(笑)。)
①単刺術
筋肉層まで刺した後直ちに抜く方法。この方法は、軽微な刺激に属する。この方法は、小児または初めて鍼治療を受ける人もしくは身体が極度に衰弱している人を対象とした手技である。
(清野解説)
この方法は、4つの技法を補う方法です。針を刺入した後響き(得気)を与える手技以外の方法を日本に来て学んだと思われます。ただし、極度に衰弱している人に筋肉層まで刺すと、逆効果ですので、清野は、皮膚面までに留めています。使用している針が太いため、日本で行っている単刺術とは異なる効果と言えます。
②旋捻術
刺入中或いは刺入後或は抜鍼時に、右手の母指と示指で左右に捻旋するや
や強刺激の手法。興奮と抑制の作用がある。1.興奮針法、2.抑制針法、3.反射針法を目的とした手技である。
(清野解説)
この手技は『杉山真伝流』「両行術」より伝わる術です。明治44年(1911年)に、山本新梧が「旋撚術」に改称しました。承淡安は昭和9年(1934年)に日本で学んでいますので、この手技を学んでいたと思われます。柳谷素霊は、昭和15年(1947年)に鍼術を21術に組み替えて紹介する際、「旋捻術」という術式を創設し、「旋撚術」から「刺入後」に操作する文言を削除した手技として紹介しています。つまり、承淡安が8つの手技を紹介したのは、彼が亡くなった1957年ですので、柳谷素霊が言う「旋捻術」を用いたと思われます。しかしながら、二人が言う「旋捻術」の内容は、異なります。刺入中或いは抜鍼時に行う方法を、日本では「回旋術」と言います。回旋術には2通りありますが、そのうちの一つの方法を組み合わせた方法が、承淡安が言う「旋捻術」です。つまり、承淡安が言う「旋捻術」は日本の「旋撚術+回旋術の一部」を組み合わせた方法ということです。もし、承淡安が、山本新梧の著した本を参考にして「旋撚術」としていたら、こんなことを書く必要はありませんでした。おそらく、柳谷素霊が使用し、そのご日本で教育している17手技の名称にある「旋捻術」を参考にしたのだと思います。他の手技を見ると、あくまでも得気(鍼響)を得る手技の構築が目的だったと思われますので、日本の鍼妙を必要とした手技を切り捨てて作ったと考えるのが妥当ではないかと思います。
柳谷が、旋撚術から刺入中の操作を削除して「旋捻術」という方法を提唱した理由は定かではありませんが、臨床家として考えるなら、刺入するときと抜鍼するときの患者さんの反応と刺入中の反応は異なるため、分離して教えた方が良いと考えたのではないかと思います。旋撚術は、とても臨床的です。臨床家としては納得のいく操作方法ですが、柳谷が紹介したこの方法は、『初学より合格までの鍼灸医学全書・第二巻』という学生向けの本だったことから、初心者向けに、旋撚術を旋捻術と回旋術とに分離したのではないか、と類推します。
③雀啄術
針尖(針先)が一定の深さに達した後、雀がついばむように針体(体に針が入る部分)を上下に出し入れ(中国では提挿(ていそう)という)し、何度も急速に行う。提挿の緩急強弱によって、興奮作用と抑制作用を起こさせる手法。1.興奮針法、2.抑制針法、3.反射針法を目的とした手技である。
(清野解説)
雀啄術は、鍼を刺し入れる時と、針を一定の深さに差し入れた後に行う方法の2通りあります。承淡安は、後者のみ伝えています。得気(鍼響)を得るための方法として用いていることが明らかです。弱刺激と強刺激のどちらも出来る手技ですが、押手(針を持つ手と反対側の針を支える手)を使わないで鍼治療行う場合は、太い針でなければならないため、全て強刺激を与える手技となります。雀啄術が持つ本来の妙味は弱刺激にありますので、この手法で期待できる対象疾患は、半分以下となっています。この手技は『杉山真伝流』より伝わる術です。
④屋漏術
屋漏術は、雀啄術とはやや異なる。針体を三分の一刺入し雀啄術を行い、
再度三分の一刺入し雀啄術を行い、さらに三分の一刺入し雀啄術を行う。抜鍼する時も刺入する時と同じように行い、三分の一引き抜いたあと雀啄術を行う。強刺激を行う手技にもっぱら用いる、抑制や誘導する方法に活用する。2.抑制針法、3.反射針法、4.誘導針法を目的とした手技である。
(清野解説)
屋漏術は、2通りあります。一つは『杉山真伝流』「三調術」の方法です。三分の一ずつ刺入しますが、雀啄術は行いません。一旦刺入したらそこに針を留めおき、再び三分の一入れる方法です。抜く時も同様です。鍼妙を大事にした手技と言えます。もう一つは、吉田弘道※氏の方法です。承淡安は、この方法を伝えています。強刺激を与えますので、得気(鍼響)を得るための方法として選んでいる事が良く分かります。
※吉田弘道は明治・大正期の鍼灸界を牽引した「杉山流」の代表人物。柳谷素霊は、吉田弘道から直(じか)に手ほどきを受けたとされている。
⑤置針術(即留針術)
一本ないしは数本の針を身体の各穴に刺入し、静かに留め、5分から10分
放置した後抜鍼する手法。強刺激を用いて抑制および及び鎮静の手法を行う場合、身体が衰弱している或は針を恐れる者には、この方法が最も良い。留め置く時間は5分から1・2時間が良く、症状が軽くなったら針を抜く。2.抑制針法、3.反射針法を目的とした手技である。
(清野解説)
置鍼術は、身体に2本以上刺すことにより、必然的に1本目の針から手を離さざるを得ないため、2本から数本刺している時の状態を言ったものです。この方法は『霊枢』「官鍼」篇にある「斉刺」と「揚刺」という方法に見ることが出来ます。「斉刺(せいし)」とは、別名「三刺」といいます。治療対象部位に1本刺した後、その部位を挟み傍らに2本刺す方法です。つまり、3本同時に刺す手法です。杉山和一は、この方法を自分が提唱した『杉山真伝流』「十八手術(18の刺鍼手技)」に組み入れて「三法手術の方」と呼称していますが、口伝によるその方法は、1本の針を3方向に変える刺し方です。「三刺」の言葉を3方向に刺す意味に解釈してこの手技を使ったのかもしれません。「斉刺」や「三刺」ではなく「三法」という用語を使ったのはどんな意図だったのか知る由もありません(補足参照)。「揚刺(ようし)」は、治療対象部位に1本刺した後、その部位の周囲に4本刺す方法です。つまり、5本同時に刺す手法です。体が冷えた部分や冷えた体を解消するために用いる手技です。柳谷素霊は、中国や日本の鍼法をつぶさに研究しています。置鍼術を別名留置術と言っています。「置鍼術」や「留置術」という名称は、「斉刺」や「揚刺」の考えや江戸時代から日本で言われている「おきばり」等の考え方が背景にあり、考え出された名称ではないかと推測しています。柳谷は、「刺鍼している針は、生体の作用で、針が吸い込まれたり抜け出たりすることから、刺鍼中十分注意しなければならないため、むやみやたらにこの手技を用いてはならない。」と言っています。
現在、中国で行われて手技は、この方法が主流です。しかも、1~2時間置鍼しています。承淡安の教えが守られていると言えます。しかしながら、柳谷素霊が言っている方法とは、かけ離れています。日本の置鍼術の意を理解しているとは言えません。針を体内に入れると、刺鍼直後から8分程、生体が著しく反応します。針という異物に反応するからだと思われます。約8割上昇し、その後30分くらいまでに生体反応はピークに達します。それから徐々に低下し50分を経過すると急落します。その実験結果から読み解くと、治療時間は8分から10分程度で終了することが望ましく、長くても30分以内で終わる事が良いと思われます。1時間以上置鍼してどのような効果を期待しているのかはわかりませんが、どの様な病態にも、置鍼術を用いている昨今の現状は、『霊枢』の記載内容とも異なっています。
清野は、『霊枢』にある「斉刺は寒気の小深なるものを治す」「揚刺は寒邪の博大なるものを治す」の言葉通り、局所的(小)に冷えが強い(深)となっている部分には3本(三刺)つまり少数の針にとどめ、冷えている範囲が広く(博)全身(大)に及んでいる時は5本つまり多数の針を刺し置き、体温の上昇を注意深く確認し、治療の効果を得たら直ちに抜鍼すべきだと考えています。臨床上、自発痛や夜間痛を伴う病態に置鍼術を用いると、症状は悪化もしくは増悪します。熱感を伴っているぎっくり腰(急性腰痛症)の人に置鍼術を用いると、痛みが強くなり、歩けなくなる確立は高いと言えます(刺鍼技術が未熟な先生は良くなりませんが、悪くもなりません)。どんな病態にも、置鍼術以外用いない方法を行っている先生のところには、急性症状の患者さんは行かないことでしょう。世界中で、置鍼術を主体とした治療を行っている先生が蔓延しています。中国伝統医術(TCM)が、日本以外の国で免許取得に必要な学問(国家試験に出題される)である事や針が高価で貴重だった時代と異なり大量生産が可能となり安価になっていることも置鍼術を選択する人が多い理由でしょう。鍼灸術の良さを伝えることが出来ない要因になっている一つだと、清野は考えています。
【補足】
杉山和一は、『霊枢』でいう「寒気小深」は、『鍼灸甲乙経』では「寒熱」と解釈している事に着眼しています。身体は、冷える(寒)と反発して体内で「熱」を生み出します(自己治癒能力を発揮します)。それを「内熱」と言います。杉山和一は、体内に生じた「熱」を利用した「寒」(冷え)を取り除く方法として、刺した針を別の2方向に刺すことが治療効果を上げる方法だ、と思い付いたのではないかと考えます。また、杉山は目が見えません。置鍼して針を手から一旦離すことは困難なため、この方法に至ったのではないかと、類推しています。
⑥間歇術
一定の深さに刺入した後、ときどき捻り動かし提挿(上下)することを数回行い、しばらく留置し、再び数度提挿し捻り動かし、再び針を留置することを数回繰り返す。血管拡張あるいは皮膚・筋肉弛緩時に応用する興奮法である。強刺激を用いれば、抑制法とすることが出来る。1.興奮針法または2.抑制針法を目的とした手技である。
(清野解説)
間歇術は、間代法とも言います。山本新梧※氏が明治44年に紹介した技法です。針を一定の深部まで一端刺入し、適宜のところまで引き上げ(退法)暫時動揺することなくそのままにしておき、間を置いた後、また前の深度まで針尖を進め下ろし、一定の時間留め置きます。間歇泉のように、間を置いて行う手技です。血管拡張、筋肉弛緩、神経の興奮性を抑制する際に行う手技とされています。この方法は、強刺激ですが、承淡安は、針を一定の深部まで一端刺入した後、針を動かしていますので、より一層強力な刺激と言えます。この方法は、日本と同じ手術名ですが、別な手法だという事がお分かりいただけると思います。あくまでも、得気(鍼響)を得るための方法として行っている事がわかります。
日本で行っている方法は、一旦刺入した後引き上げます。これはとても難しい手法です。指先の感覚が鋭敏にならないうちは、引き抜いたとき、針を抜いてしまうことがあるからです。押手を使わないと、引き上げた時針が皮膚を持ち上げることに繋がる為、痛覚を伴います。そのため、承淡安は、刺手だけを使う方式でも可能な方法に改良を加えたのだろうと思われます。この方法だと、鍼響(得気)を感じ取ることは出来ても、鍼妙を感じることは出来ません。治療効果は、日本で行う手技の半分にも満たないと考えます。
※山本新梧は、明治後期から大正時代にかけて、鍼灸学の基礎となる教科書の編纂に携わった一人。
⑦振顫術
刺鍼後、微かに針を上下に振るえるように操作する、あるいは針柄を爪で数回ひっかく、あるいは人差し指で何度も軽く叩き、針柄の上端を揺れ動かす。この方法は、血管・筋肉・神経の弛緩が振るわない者にもっぱら用いる、即ち興奮法。1.興奮針法、3.反射針法を目的とした手技である。
(清野解説)
震顫術とも書く。また、留指術とも細振術とも言います。手技の方法は、一定深度まで刺入した針体または針柄を刺手の母指と示指で掴み、刺手を振顫させることによって、針を振顫させる手技です。針体を撮む時は押手の母指と示指に、刺手の母指と示指を付けるようにすれば、振顫がリズミカルに行えます。針柄を撮んで振顫すると、弱い振顫を与えることが出来ます。また、針柄を指で弾くもしくは針管で叩打する方法もあります。
承淡安は、得気(鍼響)を得るため、針に対する衝撃度が大きい手法にしている事がわかります。使用している針が太いため、操作方法は日本と大きく異なります。わかりやすく書くと、荒くて粗い方法です。日本の手法は、細くて柔らかい針を慎重に進める方法であり、針を操作しているときの感覚は繊細です。鍼妙を大切にすると、対象疾患は拡大に広がります。太くて硬い針以外使用しない者には、一生理解出来ない感覚でしょう。この方法は、『杉山真伝流』の「地升術」「天運術」「竜頭管術」「竜頭術」を組み合わせた手技です。
⑧乱針術(活血術)
一定の深さに刺入した後、たちどころに皮下まで引き上げ、再び刺入を行い、あるいは早くあるいは遅く、あるいは前へ向け後ろへ向け、左に向け右に向け、随意の深く進める、これは強刺激になる。この方法は、誘導及び充血・瘀血を解散させるときに用いる鍼法。4.誘導針法を目的とした手技である。
(清野解説)
乱刺術、乱刺法、強直法などとも言います。この方法は、『杉山真伝流』に収載されている手技です。一定の方式に従うことなく、数種類の手技を使用して行う方法で、強刺激を与える手技です。この方法は、決まりがありません。太くて硬い針は操作しやすいため、強刺激を与えることを目的としているだけなら、うってつけの方法と言えます。日本では、回旋術、針尖転移法、刺鍼転向法など、針を自由自在に操作する方法が幾つも有ります。自由気ままに針を進めるためには、刺している部分の組織がどのようになっているか感じ取る必要があります。その感覚こそが、鍼妙です。患者の繊細な変化を感じ取らず「乱針」していると、響き(得気)を嫌だと感じる人には先生が「乱心」していると思われることでしょう。不規則に針の方向を変えるにも、確固たる技量や技術が求められるということです。
以上、承淡安が紹介した8つの手技を説明しました。8つの手技名は、現在日本で教えている17手技の名称と同じで、技法も日本の鍼術と似ていますが、基本的に針を持つ手である「押手(おしで)」を使用しない方法であることから、治療効果は一部に留まっていると言えます。
日本は、鍼治療を行う時、中国から伝来した捻鍼(ひねりばり・ねんしん)法の他、管鍼(くだばり・かんしん)法と打鍼(うちばり・だしん)法を行っています。管鍼法を発明した杉山和一は、14通りの「管術」と14通りの「押手の術」を伝えています。その他の術を合わせると全部で96の手技があります。また、打鍼術を発明した御薗意斉の術を、柳谷は、21通りの術を伝えています。押手も管鍼法とは異なります。
日本で発展した鍼術は、世界に並び立つ国がないほど、高度、繊細でかつ多様です。
現在、中国で行われている鍼術は、古来より伝わる撚針法を使って穿皮していた方法はほぼ行われず、切皮のみに特化しているとも言えます。今、主に行われているのは、「押入法」と言われる方法です。刺入する部分に、押手側の親指の爪を立て、十分に加圧します。刺す部分に残った爪のあとが皮膚に残ります。その部分に針尖を立て、静かに加圧します。時には押手の爪で鍼を刺し入れる時、針と一緒に加圧します。柳谷は、この方法を「押入法」と呼んでいます。中国では、理論、技術ともに古代から清代までに伝わった方法と異なる方法で行っています。個人的には、中国伝統医術と言いながら、伝統は捨て去っていると思います。
日本の鍼術は、詳述すると、
A.鍼を刺す際の繊細な感覚を必要とする感覚「穿皮(含切皮)」
と
B.鍼治療をする際の感覚
1)針が皮膚に入る前の針尖が皮膚に接触した時に術者のみが感じる繊細な感覚「鍼触」
2)針が皮膚内に入った時に術者のみが感じる感覚「鍼妙」
3)針が筋肉内に入り患者が響きを感じている時に術者が感じる感覚「鍼響」
を感じる手技を重視する治療です。微に入り細に入り繊細です。
鍼触を表す用語はありませんでしたので、清野が造語しました。日本には、「接触鍼」という、皮膚面に対して働きかける術式があります。また、子供を対象とした小児鍼(しょうにしん・しょうにばり)という治療法があります。主に、皮膚を刺激する方法です。この時、術者が感じる感覚を「鍼触」と命名しました。
鍼妙は、日本で重要視していますが、中国にこの考えはありません。日本では、「鍼妙」の感覚を大切にします。実際、針が体内に入った時に感じる感覚は多種多様です。この感覚を頼りに鍼術を施しますが、病気の9割以上は、鍼触と鍼妙で対応可能です。
鍼響も術者が感じることが出来ます。日本は、針が体内に入った感覚を術者が感じ取る治療法です。中国では、患者が響きを感じた時点で初めて得気を感じたとします。そこから治療が始まります。日本では、治療が限りなく終わった状態です。この大きな違いが、そのまま治療効果の差となって表れます。
中国は日本の鍼響の一部である「患者が感じる響き」を拠り所とした手技に限られています。太い針以外使用しない手技で、かつ刺手(片手)のみで鍼の術を行う(感じる)治療です。料理に例えると、薄味から濃い味まで使い分ける日本料理と濃くて脂っこい料理が主体の中華料理の様です(いや、そんなことはないと反論する人もいると思いますが)。
日本の鍼術は様々な病態に応用出来ますが、中国の鍼術が対象に出来る病態はかなり限られます。中国で行っている鍼治療の治効率は、日本の1割にも満たないと私は認識しています。「現在の中国で教育している鍼治療は効果が出ない」と国内外で言われている理由は、鍼治療に対する基本理念にあると考えています。
今回の話しは、ここまでです。とても専門的な話でした。お読みいただき、ありがとうございます。
コンサートで言えば、アンコールの時間帯でしょうか(無理やりですが)。
(おまけ)
昭和時代の日本における鍼灸界に大きな影響を及ぼした柳谷素霊は、昭和の巨匠と言われています。日本鍼術の方法は、中国伝来の撚鍼(ひねりばり)術、御薗意斉の打鍼(うちばり)術、杉山和一の管鍼(くだばり)術、が三大主流と考えられています。柳谷素霊は、その伝統的な手技の重要性を訴えていた人です。現在の日本における鍼灸術の巨匠を敢えて3人に絞るとするなら、清野の個人的意見ですが、御薗意斉、杉山和一と柳谷素霊でしょう。
その柳谷素霊は、青森県青森市の出身です。私が生まれた浪岡町は、青森市の隣街で、現在は合併して青森市になりました。つまり、同じ街の出身という事になります。彼の本名は、清助です。鍼灸学における重要な書物である『素問』と『霊枢』の頭文字を一つずつ取って「素霊」と号しました。古典を重視した人でした。1906年(明治39年)生まれで、1959年(昭和34年)2月に享年54歳(満52歳)で亡くなりました。私はその翌年生まれています。彼は、承淡安が亡くなった年の1957年(昭和32年)に東洋鍼灸専門学校(於新宿)を設立し、初代校長になりました。決して長くない一生でしたが、彼の残した功績は数え切れません。現在の鍼灸治療を形作った日本と中国の巨匠は、私が生まれる前にこの世を去りました。
2009年、東洋鍼灸専門学校内に「素霊記念館」が建立されました。個人の功績を紹介している立派な記念館です。盛大なフォーラムが行われた後、その建物の中で行った最初の講義を、私が生徒にしました。これも、何かの縁でしょうか。当時の学校長(第6代)である丹澤章八医学博士・元全日本鍼灸学会会長が私を指名してくれました。私は、同じ青森出身で彼が亡くなった翌年に生まれたので、勝手に柳谷素霊の生まれ変わりだと思っています。歴史上初めてと言える鍼灸治療の体系化を目指していますが、何か柳谷素霊と同じようなことをしているなあと感じています。ちなみに、清野は、撚鍼(ひねりばり)術と管鍼(くだばり)術を重視しています。管鍼(くだばり)術の師匠は、杉山流第九代当主岡田明裕先生(故人)です。
次回は、承淡安が行っている鍼技術の考え方についてです。 (つづく)
【参考文献】
(1)「南京中医薬大学張建斌先生に聞く 承淡安と澄江学派が現代中医鍼灸に与えた影響」『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)、136-147、東洋学術出版社
(2)《承淡安 鍼灸経験集》 項平・夏有兵主編、上海科学技術出版社、
2004.10.
(3)『鍼灸の科学 実技篇』 柳谷素霊著 医歯薬出版株式会社
1959.3.
(4) 『『杉山真傳流』鍼法十八手術・資料集』 日本伝統医学協会編
1999.3.
(5) 『杉山眞傳流 表之巻』島浦和田一 撰,和訓・注釈 大浦慈観 大浦慈観2004
(6)『杉山真伝流臨床指南』大浦慈観 編著 六然社 2007
(7)『はりきゅう実技〈基礎編〉』 社団法人東洋療法学校協会編 教科書執筆小委員会著 医道の日本社発行 1992.4.
(8)『柳谷素霊に還れ 足跡、思想を通して昭和鍼灸を考察する』 東鍼校フォーラム・プロジェクト 医道の日本社発行 2009.7.
(9)『鍼灸の実技 増補版』 学校法人素霊学園東洋鍼灸専門学校出版部 2008.
〔注釈〕
本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
令和4年(2022年)1月26日(水)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。