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東洋医学とは何か 72  138年の空白を経て誕生した中国の新しい伝統医術である中医学(TCM)は 日本の鍼灸技術の一部を導入して再スタートを切りました 理論構築には同時期に中国国内で誕生した薬草治療の分析方法を鍼灸医術に導入したため 医術と理論の一致が困難な学問です

清野充典

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テーマ:東洋医学とは何か

◇東洋医学とは何か 72 138年の空白を経て誕生した中国の新しい伝統医術である中医学(TCM)は 日本の鍼灸技術の一部を導入して再スタートを切りました 理論構築には同時期に中国国内で誕生した薬草治療の分析方法を鍼灸医術に導入したため医術と理論の一致が困難な学問です◇

 こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。 

 清野鍼灸整骨院HP  http://seino-1987.jp/

◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆

 私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。

 今回は、「鍼灸治療」の話8回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療、68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、69は明治時代の医療制度制定について、70は中国における太古から1960年頃までについて、71は中国で1960年に誕生した中医学(TCM)成立までの経緯についてです。72回目は、中医学(TCM)とは何かについてです。

 中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われて来ました。1822年に、清王朝の道光帝は、侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。

 中国人は、鍼灸医術の復興を目指し、日本の医術を学びに来ます。その中心人物は、1934年から1935年にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査した承淡安(しょうたんあん)です。彼は、1929年に設立された東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、終了時には日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取っています。中国に帰った後、日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。異なっていたのは、『黄帝内経』等の古典を学ぶこと位だったと言われています。中国での教育が日本と齟齬が無くなったのは、この頃からだと考えられます。

 承淡安は、1931年に『中国鍼灸治療学』、1940年に『中国鍼灸学講義』、1955年に『中国鍼灸学』を出版しました。多くの書物や雑誌を著作していますが、この3冊は代表的な著書と考えられています。1956年に南京中医学院が出来、鍼灸医術は、正式に国家医術として復活しました。初代校長となった承淡安の教育方針は、その後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になりました。

 承淡安は、多くの後進を育成しました。彼が養成した直接の門人は数百名、通信教育等も含めると3千数百人と言われています。彼ら門人は、1956年から中国各地に設立された中医学院で教鞭に当たりました。

 承淡安は、日本鍼灸の科学化に注目していました。鍼灸医学と西洋医学を如何に結びつけるかの思案をしていました。1956年の時点ではその答えを見出せないまま、学生に講義しています。彼の死後『鍼灸学術講稿』として講義内容が出版されています。承淡安の功績は、多くの弟子を育てただけでなく、それまで陰陽五行論を中心に理論展開していた観念的な身体分析から脱却し、科学的な視野を持った人材を育てた事にあります。

 南京中医学院が出来た頃、鍼灸学の教材は5種類ありました。まだ、決まった教育方針がなかった時代です。承淡安は、1931年に著した『中国鍼灸治療学』を主に用いていました。1957年に承淡安が亡くなった後、彼の弟子たちが『鍼灸学』を出版し、それを基に『針灸学講義』が出版された本が、1960年から用いられた中医学院の第1版統一教材です。ここまでは、承淡安の考えです。

 その後、一冊の内容だった鍼灸学を4つに分割した教材が、人民衛生出版社から出版されました。それぞれ、1962年2月に『鍼灸学(一)経絡学説』、1962年12月『鍼灸学(二)腧穴説』、1963年12月『鍼灸学(三)刺灸学』、1965年3月『鍼灸学(四)治療学』が出版され、上海中医学院鍼灸学部の教材として使用されました。『鍼灸学(四)治療学』は、承淡安の弟子たちが書いた本ですが、この内容は、理論と治療方法が一致していません。今の中医学における特徴とされる「弁証論治(べんしょうろんち)」です。その方式を構築したのは楊長森(ようちょうしん)です。

 西洋医学は病名に基づいて治療を行います。日本における鍼灸医術では、経絡治療家が「証(しょう)」という概念を用いていました。承淡安はそのことに倣い、「弁病論治(べんびょうろんち)」を用いていましたが、明確な答えを出せないまま、他界しました。長い間外国の支配下にあった中国では、西洋に追い付きたい、日本の技術を使用しても日本の用語はそのまま使いたくないと言う国民感情があったと思われます。そこで、病名に似ていて日本の「証」に似たものを探していたと思われます。
 その時、内科の医師で薬の処方をしている楊長森は、「理法方薬(りほうほうやく)」の思考方法を身に付けていました。そのやり方を鍼灸に応用したのが、「理法方穴術(りほうほうけつじゅつ)」です。一つの病気や症状に1組の腧穴(ゆけつ)〔つぼのこと〕を用いる方法です。このモデルは、承淡安亡き後当時の人達にとって枯渇した部分を埋める考えでした。楊長森がまとめた考えが、「弁証論治(べんしょうろんち)」です。『鍼灸学(四)治療学』として出版され、今は全世界で教育されています。

承淡安と楊長森の考えを整理します。
●承淡安は、西洋医学の疾病分類思考を参考にして、古代の「対症論治(たいしょうろんち)」の方式を「弁病論治」方式に取り換えた。
●楊長森は、薬草治療の「理法方薬」の影響を受けて、「理法方術」の鍼灸臨床診断の「弁証思考方式(弁証論治)」を構築した。

 中国や日本では、長い間「対症論治」つまり症状を消失することを目的として治療を 進める方法を行って来ました。明治以降、科学的な視点が入り、東洋医学的な視点で見た「証」や病名に基づく治療を行う考えも出てきています。しかしながら、症状に対応した治療法は、今も大部分を占めています。
承淡安は、そのような考えが主流な中、中国伝統の考えに基づいた病名を考え出そうとしていました。この思考方法は歴史を紐解くようになって知りましたが、私も、一つ一つの症状に対する治療という考えで行っていません。基本方針は異なるものの、従来の考えから脱却しなければならないという点では、同じです。
 一方、楊長森の考えは、似て非なる考えです。「証」を立てる考え方は、日本と同じですが、弁証論治の証は、薬物を服用するときの発想です。薬の効果は、体内に入ってからしばらく時間を要しますが、鍼灸治療は効果が即座に現われます。ツボに治療をして変化する際の時間と薬物を服用してから変化する時間は、異なっています。そのため、弁証論治では、鍼灸治療の特長を生かすことが出来ないと考えます。また、弁証論治は、陰陽五行論等の古典を用いて身体の生理や病理を理解しようとしています。学会発表するときは現代医学の知識を持ち出していますが、身体の分析方法は清朝以前に戻った感があります。
 この方法は、理論と実践が一致しません。そのため、治療成績が上がらず、鍼灸治療離れが治療家と患者の双方に、世界中で起きています。その要因は、理論だけではありません。承淡安が持ち帰った日本の鍼灸術が、正しく伝承されなかったことも原因です。

 彼の死後、弟子たちが次第に主たる指導者になって行き、1989年の承淡安生誕90周年に、「澄江鍼灸学派」が形成されました。「澄江(ちょうこう)」とは、承淡安が生まれた「江陰(こういん)」地域の別名です。この頃になると、承淡安が伝えたかった事は、骨抜きになった印象を私は持っています。
 次回は承淡安が伝えた日本の鍼灸術と澄江学派が伝承し主張している点について書きたいと思います。

 (つづく)

※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
 中国では、「針」以外用いません。
 日本では、「鍼」を用いています。
 鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
 清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
 鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
 本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。                               

令和3年(2021年)10月28日(金)
 東京・調布 清野鍼灸整骨院
  院長 清野充典 記

清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。

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清野充典
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清野充典(鍼灸師)

清野鍼灸整骨院

 患者さんと後進のために鍼灸を極めるべく、臨床現場と研究活動に全精力を注ぎこんでいます。西洋医学の融合、診療方法の体系化で、鍼灸の高い成果を導いています。論文発表や海外での鍼灸師育成の実績も多数。

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