東洋医学とは何か 27 -大正期に生まれた新たな療法-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話2回目です。鍼治療を中心に、話を進めます。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。
21世紀に入り、鍼灸治療は、多くの国で行われていますが、その歴史はあまり知られていないと考えています。そのため、鍼灸治療とはどのような治療なのかあまり実態を知られていない印象です。それどころか、鍼灸治療を行っている医療従事者自体が、自分たちが行っている医療を理解していないと思っています。かくいう私自身が、鍼灸治療をよくわかっていない・いなかったという反省に立ち、長年研究を続けてきました。その思いから、このブログを書いています。
鍼治療は、我が国に太古からあり中国へ伝わったという説があります。古事記を見ると、太古の時代すでに中国や朝鮮と同様の医術を行っていた記録が見られます。医史学の第一人者である富士川遊先生は、すでに太古の時代に鍼治療があったという事を述べていらっしゃいます。後世に中国より医術や制度が齎されたのは間違いないところですが、鍼灸治療の起源については結論が出ていません。
人類が知恵をしぼり病気に対応する行為は、どこの地域でも左程大きな差は無く、互いの地域が文化交流して次第に発展していっただろうと思います。大陸から伝来した知識や医術に対して、日本の気候風土に合った医術が発展していったことは、歴史上明らかです。
わが国最初の医療制度は、飛鳥時代(592年~710年)の701年に制定された『大宝律令』の中にある「医疾令」です。中国の医療制度を模倣していますが、984年に丹波康頼が編集した『醫心方』は、明確な日本化の表れを示す最初の文献です。古来より日本で行われて来た医術と中国の医術が融合していることがわかります。
奈良時代は、宮内省にある典薬寮で、医療を行う者の管理や教育をしていました。「職員令(しきいんりょう)」によると、医師は、諸種の疾病を診察し治療する役割です。体療(内科)、創腫(外科)、少小(小児科)、目(眼科)、歯(歯科)や角法(採血法・刺絡)等の診療を行いました。角法とは悪血を取り除く治療のことで、現代では瘀血治療(刺絡治療(鍼治療の一つ)・瘀血吸圧治療・抜缶治療・蛭治療等)のことを指します。針師は、創腫を治療する役割です。創腫は、唐では瘡腫のことを言い、外科学を指します。「医疾令」第六条には、「針灸を合わせた方法を習うべきである」と書いてあります。針師は、鍼灸術を学び、外科治療を行いました。
医師は全ての病人を担当しますが、主な医療は薬物治療だったと考えられます。後に、本道と言われます。現在の内科治療に相当します。現代風に言えば、総合診療医であり内科医です。医師が、外科医である針師、後の鍼医・灸医、明治時代の鍼灸師、現在のはり師・きゆう師に診療を依頼するという形式だったと思われます。
鎌倉時代から室町時代は、医官制度が廃頽し針博士や針師は名実を失っていましたが、室町時代末期の戦国時代に御薗意斎が出現し、鍼灸治療は復興しました。日本鍼術の方法 は、中国伝来の撚鍼術、杉山和一の管針術、御薗意斉の打鍼術が三大主流と考えられています。徳川綱吉が鍼術の振興を図ったため、江戸時代中期に活躍した杉山流鍼科が起こりました。灸法の効能は鍼と相通ずるとされたことで、灸術も同様に研究が進みました。江戸時代になると、鍼治療は鍼治と呼ばれ治療する医者は鍼医と言われました。灸治療は灸治と呼ばれ、治療する医者は灸医と言われて国民の間に浸透しましたが、医者になる規定は医官のように定められませんでした。
鎌倉時代は、『医談抄』(惟宗具俊著・1284)によると、針術と烙(らく)という火針・燔針(はんしん)術を用いていたことがわかります。火針・燔針は、腫物に行う医術です。経絡や経穴に針をする術と外科的処置の両方行っていたことがわかります。この時代は、『万安方』が代表的な著書です。
室町時代は、鍼術の衰微はわかるものの、鍼灸治療が行われなくなったという史実はありません。医師は、脈を見て病気を判断したら、熱病には金針や灸を用いて治療しています。また腫物に、火針や掻針(かきばり)という瀉血を行っています。この時期、曲直瀬道三が『啓迪集』を表し、『福田方』とともに貴重書として読まれています。曲直瀬が書いた『鍼灸集要』は、鍼灸の要となる法則を伝える貴重書です。
安土桃山時代になり、御薗意斉(御園流打鍼術)、吉田意休(吉田流鍼術)、入江頼明(入江流鍼術)などの諸家が誕生しました。現在、夢分流(打鍼または撃鍼)の開祖夢分斎が誰か論議されています。御薗意斉の父が無分であり呼称が酷く似ていることから同一人物であるかの是非が問題となっていますが、結論は出ていません。御薗意斉は、宮内省の針師を育成する針博士に任ぜられています。従来の教育内容に、打鍼術が加えられたと考えられます。明確な日本化が始まったと言える時期です。
平安時代以降、針は長短大小不同で、応用目的も差異がありました。つまり、病気に応じて道具を変えていましたが、鍼灸術が衰微していたので、この時期は鈹針(ひしん)と毫針(ごうしん)の2種類しか用いていなくなっていました。鈹針は膿を切開する形状の道具です。毫針は体内に差し入れる形状で、現在多くのはり師が用いている針です。
針を木槌などで叩き入れる打鍼術は、多くの新しい道具を生み出しました。衰微していた日本の鍼科が生まれ変わった時代と言えます。こののち、「針管(しんかん)」という日本を代表する道具が誕生します。
(つづく)
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
参考文献 『明治前日本医学史』第三巻 日本学士院編 日本学術振興会刊
令和3年(2021年)4月18日(日)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在75年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。