東洋医学とは何か 23 -漢方の1つ按摩治療から分離した指圧が出来た時代背景Ⅲ-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、簡潔に書けません。数回に分けて書きます。
21世紀に入り、鍼灸治療は、多くの国で行われるようになりました。西洋医療に変わる新しい医療と考えられている面がある一方で、その歴史が長いことは衆目の一致するところでしょう。日本では紀元410年頃に鍼灸治療が中国・朝鮮方面から齎され現在に至っている事から、「中国は東アジア伝統医学の発祥地」と言われています。その中国では2019年9月現在、『五十二病方』が鍼灸治療最古の文献とされています。鍼治療は「砭石(へんせき)」や「石針」が鍼治療を裏付ける記載として考えられ、灸治療は「熨法(のしほう)」と言う温罨法が灸治療の起源と考えられています。
しかし、1991年9月19日にイタリア・ボルツァーノ県ヴェルトゥルノ近辺で発見された約5300年前と考えられる男性ミイラの皮膚にある15の入れ墨と経穴の位置を比較検討したオーストリアのレオポルト・ドルファー医師は、「入れ墨の痕は経穴に相当するのではないかと考えられる」と発表しました。彼は、9つの痕が6 mm以内、3つの痕が6 mmから13 mmの間の距離に位置し、2つの痕が経穴では無いが、経絡上1つの痕が丘墟と解谿の中間であり、具体的には、左腰部3つの入れ墨はそれぞれ胃兪、三焦兪、腎兪とほぼ一致し、左外果後方のものは崑崙、右膝内側は曲泉、右下腿外側は陽輔であるとしています。入れ墨の位置は、症状の局所又は関連痛を感じる部位(例えば腰椎が原因で発生する坐骨神経痛)に一致しているのではないかと推察する研究者達もいます。
ドルファー医師らの仮説は、東アジアの中国で経絡経穴が認識される少なくとも2000年前には既にユーラシアで鍼の様な治療が発祥していたのではないかと言う主張です。近年、鍼治療の起源が様々な角度から検討されていますが、医学界の現状を鑑みると、鍼治療は中国が行っていた時かそれ以前より同時多発的に類似の治療が世界中で行われていたと考えるのが妥当ではないかと思われます。但し、疾患・症状に対応する治療点として経穴を「認識」した事、それと前後して経脈を「認識」していた事、そしてそれらを最初に体系化及び文献化したのが中国であった事に、今の所異論は無いと思われます。
日本では、古墳時代(300年~592年)の414年に仁徳天皇が病に罹られた際、新羅の名醫金武を日本に招き鍼治療を受けています。これが日本に初めて鍼治療が伝来した史実とされています。その後、百済と交流していましたが、562年に呉の人・知聰(ちそう)が中国から初めて来日します。彼は日本に帰化して『藥書明堂圖』など164巻を献上しています。以来、約1400年以上、継続して中国医学を受容して来たことによる長い歴史があり、多くの優秀な研究者達による沢山の書籍が残されています。また、日本特有の治療技術が生み出され伝承されています。鍼灸治療および薬草治療において、日本は中国に無い独自の理論体系を持ち、より安全で且つ高水準な鍼灸治療技術や独特な方法が開発されてきました。984年に丹波康頼が編集した『醫心方』は、国宝となっています。この書物は、明確な日本化の表れを示す最初の文献です。
わが国最初の医療制度は、飛鳥時代(592年~710年)の701年に制定された『大宝律令』の中にある「医疾令」です。『大宝律令』は現存していないため、藤原不比等らが養老2年(718年)に『大宝律令』を修正したとされる『養老律令』で制度内容を知ることが出来ます。奈良時代の医療制度は、わが国最初の医制です。中国の唐で行われていた医療制度を模倣した「医疾令」は、全部で27条あります。鎌倉時代まで数百年の間ほぼ踏襲された制度です。その内容を見ると、宮内省にある典薬寮で医療に携わる人を、管理・教育していました。「職員令(しきいんりょう)」によると、職責は23に及びます。責任者は典薬頭です。主な構成は以下の通りです。
医師 10人
医博士 1人
医生 40人
針師 5人
針博士 1人
針生 20人
按摩師 2人
按摩博士1人
按摩生 10人
呪禁師 2人
呪禁博士 1人
呪禁生 6人
薬園師 2人
薬園生 6人
医師は、諸種の疾病を診察し治療する役割です。体療(内科)、創腫(外科)、少小(小児科)、目(眼科)、歯(歯科)や角法(採血法・刺絡)等の診療を行いました。角法とは悪血を取り除く治療のことで、現代では瘀血治療(刺絡治療(鍼治療の一つ)・瘀血吸圧治療・抜缶治療・蛭治療等)のことを指します。針師は、創腫を治療する役割です。創腫は、唐では瘡腫のことを言い、外科学を指します。「医疾令」第六条には、「針灸を合わせた方法を習うべきである」と書いてあります。針師は、鍼灸術を学び、外科治療を行いました。また、富士川遊氏は、砭石按摩師は、骨折や脱臼や靭帯損傷を治療する役割と言っています。按摩師は、瀉血や包帯術を行っていました。現代医学では、整形外科治療に相当します。また、あん摩や導引を行っていたので、現在のあん摩治療や運動療法等を行っていたと考えられます。呪禁師は、呪文を唱えて邪気を払う等をする人です。当時は、職責を担っていました。呪術の世界は古代より世界中に存在しており、今なお信仰が厚い方法と言えます。薬園師は薬草を栽培し採取する人です。
医生40人のうち、それぞれ20人ずつに分け、その中の12人は内科、3人が外科、3人が小児科、2人は耳鼻咽喉歯科を学ぶこととされています。医生の修業年限は7年ですが、外科と小児科は5年、耳鼻咽喉歯科は4年で医師と認めました。内科を学ぶ24人の医生が7年ということになります。針生20人は、医生とともに7年です。按摩生・呪禁生は3年でした。医師・針師・按摩師の中でそれぞれ優秀な人を1人博士とし、医生・針生・按摩生の教育を行いました。医博士、針博士、按摩博士は、それぞれ国の医療を担うトップです。国宝の『医心方』を書いた丹波康頼は、針博士でした。これらの違いは、官位や禄(ろく)の違いとなって現わされました。針師は医師より階級は一つ下に定められました。
医師や針師の医官制度は、制度上江戸時代末まで継続していたと言えます。民間では、医術を学べば誰でも医者になれたため、鍼灸術を行う医者は、鍼医、灸医と言われるようになりました。
(つづく)
※上記は、清野が長年調査した内容です。参考文献は多岐に亘っています。ここに列記すると大変な量になりますので、ブログという性格上割愛させていただきます。論文として投稿しますので、ご興味がおありの方は、そちらをご覧いただきたく思います。
令和3年(2021年)3月3日(水)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在75年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。