東洋医学とは何か 59 戦後の日本は国家医療資格が細分化 医業類似行為者の取扱に苦慮
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
私は、順天堂大学大学院医学研究科の医史学研究室に在籍しています。東洋医学について長年研究をしてまいりましたので、東洋医学についてコラムを書いています。
明治7年(1874年)8月18日に医師制度(医制)が誕生してドイツ医学中心の医学・医療に変わりました。江戸時代まで鍼灸治療、薬草治療、整骨治療、按摩治療等の医療は「本道(ほんどう)」と呼ばれていましたが、国の中心となる医療ではなくなったことから、別称として「漢方」と呼ばれるようになりました。医師は、医学大学や専門学校を卒業した者、医師試験を合格した者、外国の医学校で4年以上の課程を修了した者とされましたが、医師試験は8年間実施されないことから、従来開業していた人に対する医術開業試験は継続して行われることとなりました。試験は、救済措置として大正5年(1916年)まで実施されることになっていましたが、大正3年(1914年)10月1日の文部省令で「医師試験規則」が施行されたことに伴い、大正3年(1914年)10月の試験が最後となりました。これにより、西洋医学教育を中心に受けた者以外の医師免許取得が事実上断絶しました。旧来の漢方医が医師の資格を取得する道は、完全に閉ざされました。
明治17年(1884年)1月1日に行われた第1回医術開業試験以降、医師国家試験には漢方に関連した問題が出題されないことから、試験に合格することを目的とした医師たちは漢方を学ぼうとしなくなったため、明治20年(1887年)以降、漢方医学は大きく衰退しました。その後、漢方の復興に関する活動が実り、明治44年(1911年)8月14日には「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」が制定され、漢方の一つである鍼灸術や按摩術(あん摩)は正式に国家の医療として復活し、徒手整復術(柔道整復術)もその後追認されました。
第二次世界大戦(大東亜戦争)を経て、日本は昭和22年(1947年)5月3日に日本国憲法が施行されたことに伴い、新憲法への移行が円滑に行われるため、先だった4月18日に「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」が公布されました。これにより、「鍼術」「灸術」「按摩術」の法律は、昭和22年末まで効力を有することとなりました。
これに先立ち、昭和22年3月に、厚生大臣の医療制度審議会において、4つの主な答申が行われました。その内容は、
1.鍼灸、按摩、マッサージ、柔道整復術営業者はすべて医師の指導の下にあるのでなければ、患者に対してその施術を行わしめないこととする
2.鍼、灸営業については、盲人には原則として新規には免許を与えないものとすること
3.柔道整復術営業については、原則として新規には免許を与えないものとすること
4.いわゆる医業類似行為はすべてこれを禁止すること
というものです。これらを受け、国内で各関係機関と調整したのち、昭和22年12月20日に「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が公布され、昭和23年(1948年)1月1日に施行されました。
これにより、従来の「鍼灸師」は「はり師」と「きゅう師」に分離されました。盲人が灸治療を行うことは困難であることから、実質「きゅう師」の資格を切り離した政策と言えます。また、「按摩師」は「あん摩師」と「柔道整復師」という新しい免許になり、江戸時代に「整骨医」や「接骨師」が行っていた骨折や脱臼等の外傷に対する・徒手整復術は、正式に医療として認められました。
一方、「医療類似行為」と「療術行為」を合わせた新しい名称「医業類似行為」はすべて禁止することにしましたが、現に営業を行っている者については、生活を考慮し、所定の届出を行った者が昭和30年末までの間営業出来る事としました。昭和22年10月1日から12月31日までの届出期間に、約14000人が届出を行いましたが、医業類似行為者の届け出期間が9か月と短かったのでこの規定による救済を受けられない者が相当存在しました。戦争で外地に在住する者が、簡単に帰国できなかったからです。
医業類似行為者の法律は制定されず、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」の中に組み入れられ、医業類似行為という名称が表に出ることなくこの法律の中で、幾度も延長されます。昭和23年(1948年)1月1日以降、医業類似行為は、既得権者以外一切禁止されました※が、昭和26年4月1日に「あん摩師、はり師、きゅう師、柔道整復師法」という身分法に改められた際や昭和28年1月20日に受験資格等に関する改正が行われたとき、戦争による引き揚げ者が全員完了していないという理由で既得権益の延長が行われました。
昭和24年(1949年)から昭和27年(1952年)に行われた調査によると、医業類似行為者は14856人でしたが、昭和30年末までの営業禁止猶予期限が迫ってもなお13000人が営業していました。政府は、昭和30年(1955年)8月12日に医業類似行為の営業を33年(1958年)12月31日まで3年延長し、医業類似行為の一つとしていた「指圧」をあん摩に含め、届出業者があん摩師に転業するように促進することにしました。それに伴い、届出医業類似行為者は、指圧業以外は廃業となりました。
その後、指圧関係の届出業者を中心に相当数のあん摩師試験合格者が誕生しましたが、医業類似行為者の解決にほど遠かったため、昭和33年(1958年)4月22日に再度昭和36年(1961年)12月31日までに延長、昭和36年(1961年)11月16日には更に昭和39年(1964年)12月31日まで延長しました。日本政府は、5度にわたって医業類似行為者の既得権益を延長しました。期間にすると16年間に及びます。戦後処理が19年続いたと言えます。
昭和38年(1963年)12月に、中央審議会は、厚生大臣に対して、
1.あん摩業における視覚障害者の保護
2.医業類似行為の取扱
3.無免許者の取締り
について答申を行いました。
1については、「あん摩業における視覚障害者のため、あん摩師を慰安、疲労回復を目的とする「保健あん摩師」と医師の指示の下に疾病の治療を目的として行う「医療マッサージ師」とに分け、「保健あん摩師」について、視覚障害者のみに開業を認めること。」という内容でした。この考えは区別が困難であるということで関係者の合意を得ることは出来ず、実現しませんでした。あん摩師が2つに分離することはありませんでしたが、医師の指示の下に行われるマッサージは医療保険の適応になっています。実務上は、このときの答申が生かされています。
昭和39年6月30日に改正された「あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法」では、「あん摩師」の名称が「あん摩マッサージ指圧師」に改められました。
マッサージは、医療保険が適用となる行為として組み入れられた名称と思われます。この背景には、昭和39年に誕生した作業療法士と理学療法士との兼ね合いがあると考えられます。また、「あん摩マッサージ指圧師」資格は、医業類似行為を行っていた「指圧業者」に配慮した名称でした。
2の答申である「医業類似行為の取扱」については、大きな議論となりました。届出医業類似行為者は、14856人でしたが、昭和39年(1964年)6月30日時点で約9300人になっていました。日本政府は、6度目の延長を決め、新たに届出を求めました。登録者は約2500名でした。このとき、医業類似行為を5つに分類しました。
その背景には大きな事件がありました。その事件は、医業類似行為に対し大きな誤解と曲解を生み、その問題は今なお行政と国民に大きくのしかかっています。
【参考文献】『医学教育の歴史』坂井建雄編 2019年3月20日(財)法政大学出版局発行
『厚生省五十年史』
※1948年に既得権を得ている人は、仮に当時18歳としても2020年現在90歳を超えています。世襲は認められていませんので、鍼灸院・接骨院・整骨院・あん摩院・指圧院以外の名称で治療行為をしていて90歳以下の人は、何らかの医療国家資格を有していない限り法律違反者です。
(つづく)