東洋医学とは何か 43 -明治27年に「漢医継続願」が否決され漢方医の消滅が決定-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
私は、順天堂大学大学院医学研究科の医史学研究室に在籍しています。東洋医学について長年研究をしてまいりましたので、東洋医学についてコラムを書いています。
明治7年(1874年)8月18日に医師制度(医制)が誕生してドイツ医学中心の医学・医療に変わりました。江戸時代まで鍼灸治療、薬草治療、整骨治療、按摩治療等の医療は「本道(ほんどう)」と呼ばれていましたが、国の中心となる医療ではなくなったことから、別称として「漢方」と呼ばれるようになりました。明治17年(1884年)1月1日に行われた第1回医術開業試験以降、医師国家試験には漢方に関連した問題が出題されないことから、試験に合格することを目的とした医師たちは漢方を学ぼうとしなくなったため、明治20年(1887年)以降、漢方医学は大きく衰退しました。その後、漢方の復興に関する活動が実り、明治44年(1911年)8月14日には「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」が制定され、漢方の一つである鍼灸術や按摩術(あん摩)や徒手整復術(柔道整復術)は、正式に国家の医療として復活しました。
明治20年(1887年)頃、近代西洋医学を主体とした医療体制が確立した時期に、府県立医学校の費用を地方税で支弁する事を禁じる勅令が出されました。このことにより、明治20年(1887年)に22校あった官公立医学校は明治21年(1888年)に3校になりました。その結果、明治34年(1901年)には、医師数が32508人となり、6000人以上医師数の減少が判明しました。
この時期は、日清戦争(明治27年(1894年)~明治28年(1895年))において清国に日本が勝利した時期です。明治28年(1895年)4月17日に下関で行われた日清講和条約で清国から台湾、澎湖諸島を割譲され、大東亜戦争終了時までに日本の領土となりました。このときから、日本は、それぞれの土地で、日本の医学教育をしています。それぞれの地域で、日本の医療制度が敷かれ、医師等の養成が行われました。多くの医師が、現地に派遣され、日本の医学教育が行われました。
国内で医師数が減少し、海外へ派遣しなければいけない状況の中、国外つまり外地でも医師が誕生するようになりました。
外地とは、台湾、朝鮮、樺太、満州・関東州です。また、医学教育は中国占領地域や南方占領地域でも行っています。中国は、北京市、天津市、上海市、河北省、山西省、河南省、山東省、江蘇省、浙江省、安黴省、河北省、江西省、海南省に及びます。南方は、マニラ、ジャカルタ、昭南(シンガポール)、マラッカ、ビルマ(現ミャンマー)です。
最初に教育が行われたのは、台湾です。明治32年(1899年)3月31日に台湾総督府医学校管制が公布され、台湾人の医学校が誕生しました。明治35年(1902年)5月11日に3名の卒業式が行われました。外地で誕生した初めての医師です。
満州に開設された近代的医学校は、明治44年(1911年)奉天に設立された南満州鉄道の社立「南満医学堂」のちの満州医科大学(大正11年(1922年)昇格)です。予科3年本科4年の教育です。第1回入学者は、日本人20名、中国人8名の男子でした。明治45年(1912年)にスコットランドの伝道医師が「奉天医学専門学校」のちの盛京医科大学(昭和15年(1941年)昇格)を開設しました。
昭和7年(1932年)3月に、満州国を設立した当時は、漢医が医師の殆どを占め、西洋医学を学んだ医師(西医)は少なく都市に偏在していました。昭和10年(1935年)の調査では、西医2497名漢医10317名でした。そのため、満州国は医療機関の設立を急ぎました。
国立医科大学として3校設立しました。昭和13年(1938年)5月に新京医科大学、昭和15年(1940年)5月に哈爾浜医科大学、昭和15年(1940年)6月に佳木斯医科大学が日本の医師法により厚生大臣より指定を受け、日本の医師免許が与えられました。修学年限は4年でした。また、周辺地域に出来た昭和15年(1940年)6月に設立の国立開拓医学校は、修業年限2年で現地限定医師免許が与えられました。昭和17年(1942年)2月設立の省立医学校や昭和19年(1944年)に設立された省立医学校2校も、修業年限2年で現地限定医師免許が与えられました。
その他、昭和13年(1938年)に開設された満州国立満州国陸軍軍医医学校等、医師不足に対応するため様々な特例を持って医師と見なしました。7年以上の助手または代診としての勤務歴があれば認許され、医師として従事していました。また、日本の大東亜省が認めた満州開拓保健指導員にも現地開業医の資格を認めていました。この場合、3年以上医業介補の実地経験のある25~50歳の内地人の男子が対象でした。
明治20年(1887年)頃、近代西洋医学を主体とした医療体制が、戦争という時代の波に飲まれ、教育体制が大きく瓦解しました。
海外で取得した日本人医師の免許取扱は、戦後の医療運営を巡る法律の策定に、大きく関わることになります。医業類似行為に関する法律にも影響しました。
【参考文献】『外地の医学校』泉孝英著 2019年11月30日(株)メディカルレビュー社発行
(つづく)
東洋医学・東洋医療に関して、すぐに詳細をお知りになりたい方は、清野鍼灸整骨院ホームページ「東洋医学の辞書サイト」やブログをご覧頂きたく思います。「アーユルベーダ」の一つであるヨーガについては、「清野充典の東洋医学ひとりごと」のブログに掲載しています。
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令和2年1月21日(火)
清野鍼灸整骨院(東京・調布)
院長 清野充典 記