鏡像関係は、絶対的孤独な人間の寂しさと孤立感を癒す
あだ名は他の言い方ではニックネームとも言い、家族の中で、または幼稚園の頃から社会人になってからもあだ名をつけられたり、ニックネームで呼ばれたりします。
一般的にあだ名で呼ぶ目的は、
・仲の良い友達として親しく呼び合いたい
・新しくサークルや職場に入ってきた人の緊張を和らげる
・名前を覚えるのは苦手だから
・親近感を持たせ、コミュニケーションをよくする
など親密さの象徴として使われることが多く、コミュニケーションの一つの形を成しています。
あだ名はある意味の隠語になります。日本人は縮めるのがとても好きです。業界だけでしか通じない、仲間内でしか通じない、そういう暗号めいた圧縮語も隠語になります。例えば、木村拓哉さんを「キムタク」と言ったりします。
あだ名で呼ぶ隠された2つの心理
【仲間意識の結束】
あだ名はお互いが通じあえる隠語という、自分達にしか通用しない閉鎖的な農耕民族の村意識伝統の表れです。若者はこれが一番強く、同世代間の隠語を使います。これは自分たち世代の村の中でしか通じない。農耕民族の名残りが若者の隠語に象徴されています。隠語で話すことで仲間意識の結束を強めます。なぜなら、仲間しか知らない隠語、暗号のようなものは連体感を深める効果があるからです。
【他者の排除】
そして差別化します。隠語を使うことで自分達の世界だけで集まり、他は排除することになります。隠語を聞いても判らない、という事は自分達の言語圏から排除しています。
あだ名をつけたり、あだ名で呼ぶ人は排除意識が強く、自分の気に入らない人は全部排除します。気の合う人しか仲間に入れません。それが少し強いと、自分にしか通用しない言葉を使って、あだ名をつけるということになります。
一見、表向きは、プラスに見ればユーモアとも言えます。悪く言えばその人の欠点なりなんなりを中傷する、一歩間違うといじめ言葉になります。だからユーモアに行くかいじめに行くか、微妙なところです。どちらにでも行ってしまうという構造を持っています。
あだ名の機能は、棘と皮肉のカモフラージュ
日本人は仲間意識が強いために隠語を作って、排除意識を特別な仲間の符合のユーモアに転換して、あだ名という秘かな連帯の形をとります。幼児語に近い繰り返しの言語を使ったり、そういうものは全てユーモアへ変換して、無意識的な排除に気づかれないようにしています。目的は排除です。あだ名の隠語の機能は、それを物語ります。
人間は言葉に全てが現れます、言葉一つで全てが見えます。所謂相手への敵意を、ニックネームというあだ名のユーモアで上手く包み込んで棘の無い言葉にしているだけで、実は棘があります。皮肉、揶揄してからかいですが、同時にユーモアに変えています。
ユーモアを抜くと唯のからかい、嘲笑。あざけ笑い。そこを上手くカモフラージュするのがあだ名の機能です。
卑劣な悪意あるあだ名
一見、言葉は幼稚ぽい音で、実はずいぶんなことを言っていることはよくあること。学生時代はあだ名をつけて、からかったりします。一番酷いあだ名は、ばい菌。ばい菌というあだ名はいじめの時によく使われます。「ばい菌ばい菌」と呼ぶため、罪悪感・罪意識が多少なりとも生まれる処を、ユーモアで相殺され軽減されるという錯覚をしています。
しかし、実際あだ名で呼ばれる本人は軽減などされていません。悪意をそのまま受けています。不快を越え傷ついています。更に言えば心は殺されています。
昨今のコロナ感染者も同じ構造です。コロナ感染者は、ばい菌だから一度でも履歴があるとみな避けます。保菌扱いするのも、邪魔もの扱いするのも汚いものに置き換えて言うのも、変わりありません。一番卑劣な言い方です。
無意識の排除を自覚し誤魔化さず、人を傷つけるあだ名は決して使ってはなりません。それは自分をも傷つけています。“人は他者を通して自らを語る”ため、自分をばい菌と言っていることに等しいからです。
個の尊重と共存共栄
そもそも排除するのは何故でしょうか? これは攻撃ではありません。唯仲間の中に嫌いな人、物を入れたくないだけです。自己保身から来ています。しかし仲間意識が強いと、個はあるでしょうか? 個を少し出すと、「ちょっと変わってる」などと言われてしまい仲間の間においても排除されかねません。
先ず個の尊重を第一義に持ち、そして集団の仲間の一員となる。個の尊重なき所に親密も何もありません。それは迎合しているだけです。迎合していると心の負担になります。お互いに認め合い尊重し合い協力し合って、共存共栄ができる人間関係でありたいですね。
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