道徳に通ずる防犯教育の在り方
子どもへの心配は被害だけではない
近年、子どもたちを取り巻く環境の変化を、実感する人も少なくないと思います。インターネットの普及やいじめの陰湿化、少年犯罪の凶悪化など被害だけではなく、加害の心配も増えています。和歌山県の小5男児殺害事件や神奈川県の中1少年殺害事件などは、記憶に新しい凶悪犯罪です。なぜ、被害に遭ってしまったのか。なぜ、凶行に及んでしまったのか。真実を知るのは、加害者だけです。そして、知識や経験の少ない子どもによる凶行は、私たち大人にとって、理解しがたいものです。しかし、思考を止めてしまえば、新たな被害者を作り出すきっかけとなり、心配は恐怖へと変化します。防犯教育の徹底や少年法の改定など、一定の効果は得られるものの、心配を拭いきれるものではありません。諦める前に、子どもたちの声に耳を傾けるべきではないでしょうか。
連れ去りから子どもを守るために
子どもたちを狙う犯行者は、自分より弱者であることを理由に挙げる卑劣な存在で、許せるものではありません。しかし、犯行者をいくら責め立てても、消し去ることは出来ません。子どもたちを卑劣な犯行者から守るためには、犯行の機会を与えないことです。犯行者の好む機会は、目撃者がいない、関心が向けられていない、誤魔化せるなどの状況です。つまり、子どもが1人で行動している時です。核家族化や人間関係の希薄化(関心の薄れ)が進行する現代社会において、子どもを1人にしない状況を作り出すのは、極めて困難なことに思えます。そこで、注目されるのが「防犯ボランティア」の活動です。通学路での見守りや登下校の引率など、その活動は年々盛んになっています。また、子どもたちの「気づき」を利用した防犯教育も進んでいます。「気づき」は、防犯意識の向上に繋がり、自ら危険を回避しようとします。子どもは、私たち大人をよく観察していて、真似をして経験や知識、知恵を身に着けていきます。「防犯ボランティア」への活動支援や参加、家族間の労いや感謝なども気づき、身に着けていきます。今年1月に、群馬県で発生した「小4少女連れ去り未遂事件」では、少女の機転と家族の連携から、家族の密接な関係が窺えます。子どもを凶悪な犯罪から守るために、家族の在り方を見直すことも必要でしょう。
子どもを凶悪犯罪に巻き込まないために
子どもたちの今は、私たち大人が通ってきた道です。自分が育った家庭は、家族との関係は良好でしたか。家族から何を学びましたか。そして、今の自分が好きですか。答えは様々だと思いますが、必ず答えられる筈です。それが経験であり、今、その経験を重ねているのが子どもたちです。日々、経験を重ね、知識と知恵を身につける過程で、答えを性急に求めたり、与えても理解に苦しむだけではないでしょうか。子どもの頃を振り返ってみて、歳を重ねた今では不思議なくらい、悩んでいたことを思い出します。また、その悩みから解放されたくて、友人と連れ立って遊び回ったことも、経験と反省として思い出されます。成長過程にある子どもたちにとって、結果や結論は可能性や希望を摘むものであって、興味は手段や方法にあり、自分で考える時間を欲しているのではないでしょうか。そして、私たち大人には、未熟な子どもたちが出す答えをジャッジするのではなく、間違わないように導く責任があると考えます。神奈川県の「中1少年殺害事件」では、被害少年の母親が発表したコメントから痛切な後悔が窺え、更に心が痛みます。現状を変えることは困難を伴い、長い年月も必要でしょう。しかし、諦めれば悪化の一途を辿ります。たとえ、僅かな一歩であっても前進する勇気と子どもとの距離を縮める努力が大切です。
子どもが巻き込まれる犯罪が後を絶ちません。被害者は勿論、加害者にもなって欲しくない存在です。子どもと犯罪を切り離すことは不可能でしょう。しかし、減らすことは可能です。たとえ、目を覆いたくなる凶悪事件であっても、加害者を一方的に責めるだけではなく、目を逸らさず、そこから学ばなければならないでしょう。そして、変わらなければならないのは、私たち大人の方かも知れません。