本の出版を記念して~僕が建築を志したワケ その2~
こんにちは!
株式会社サンオリエントの磯崎です!!
ここでもお知らせしましたが、先日本を出版しました。
その名も
「鉄筋コンクリートでマイホームを建てる」
おかげさまで、読んだ方からの感想も好評でありがたく思っています。
そこで、出版を記念して本の中にも書いてある「コラム」をここでご紹介していきたいと思います。
これは専門的な内容ではなく、僕の幼少期から起業までをたどったモノなので、今の会社を作った経緯などを知ってもらうには良いのかなと思いまして(^_^;)
ではどうぞ!!
「船を買うちゃらないけん」―もともと私が建築を志したのは小学生のときにそう考えたのがきっかけでした。
私が生まれたのは岡山県倉敷市の片田舎です。西日本では人気の観光都市として知られる倉敷市ですが、風情ある街並みが残っているのはごく一部。
私が幼少時代を過ごしたエリアは田んぼと畑しかない「ど」がつくような田舎町でした。
三階建ての学校がいちばん高い建物で、それより階数の多いものなんてありません。
高所にのぼる経験がなかったせいでしょう。
今でも私は高い場所が苦手です。
ある時、そんな私に転機が訪れました。小学校で「古切手を集めてカンボジア難民を救う募金活動」というものが実施されたのです。
カンボジアで内戦が始まったのは1970年のことです。
以降、戦争が続くなかで多くの人が難民として近隣の国に逃げ出しました。
ところが、着の身着のままで逃げ出した彼ら・彼女らには食べることさえ難しく、飢えてガリガリに痩せ細った子どもたちの写真が学校に貼り出されたのです。
それを見た小学5年生の私は「よし、わしが食料を届けちゃろう」と決心しました。
大量の食料を日本から運ぶのには船が必要です。
「食料と船を買える大人になること」がその後長く、将来を決めるときの指針になりました。
中学はそのまま地域の公立中学に進学するしかなかったので、進路を選ぶ岐路が訪れたのはそれから5年後、高校進学を迎えたときです。
地域には普通科高校と商業高校、工業高校があり、大学に進学する同級生は皆当然の如く普通科高校を選びました。
ところが私は商業高校もしくは工業高校という二択でした。
親の懐事情を推し量ると、大学進学は少し厳しいと感じていたからです。
すると後日、親から奇妙な理由で商業高校をすすめられました。
私の田舎に時々やってきていた占い師に家で将来について見てもらったときのことです。
「この子は胃腸が弱いので、ストレスのない事務員や公務員になるのがいい」
占い師にそう告げられた母親が、私を心配して商業高校をすすめてくれたのはありがたかったのですが、当事者の私が感じたのは「そんな理由で将来を決められるのはまっぴらじゃ」という強い反発でした。
絶対に商業高校には行かない―。
そう決めた私に残された選択肢は工業高校だけでした。
つづく