塾長の考え(親子関係)18
1989年3月。
私(=塾長)は大学に合格した。
1989年4月。
大学生になると同時に塾講師になった。
私の誕生月は4月。
23歳だった。
それから4年の歳月が過ぎた。
この4年間は塾講師とはいえアルバイト講師。
中学生に英語を集団授業にて指導した。
この4年間でいろんなことを経験できた。
学習塾とはこういうところなんだな、
それが認識できたことがもっとも大きかった。
1993年3月。
大学を卒業した。
大学を2年間通った後は、中退して、
パイロットになるべく航空大学校に進学、
これが中学3年生のときからの夢だった。
今もそうだが、
航空大学校は大学2年生のときに受験して、
合格すれば在籍している大学を2年時で終了。
本来ならば3年時の4月に当たる時期に、
晴れて入学となる。
※入学時は他の時期も選べる。
この夢を大学4年時に断念した私は、
大学卒業と同時に実業家になることを決めた。
たった1度の人生、やりたいようにやる。
そう決心したからだった。
でも、一体何をするか?
最初は不動産業を営みたいと考えた。
今は亡きおじが建築会社の社長であり、
自分が不動産業をすれば、
建築業をしている叔父と一緒に仕事ができる。
単純にそう考えたからだった。
小さいころからずっと、
私にとっては、
叔父が生き生きとしていた姿が、
ずっとまぶしかったからだ。
(ちなみに叔父は長者番付に載っていた)
おじは週3回はゴルフに通う人だった。
私はゴルフには興味がなく、
今でもまだやっていないが、
当時の趣味と言えば将棋。
今でも同じだがいつかアマチュアの中で、
トップに立ちたいと考えている。
結局私が選んだ道は学習塾の創立。
塾長になること。
自塾の生徒の成績をドンドン上げて、
宮崎県でもっとも成績の上がる塾になる。
それが新たな夢となった。
1993年3月。
北斗塾の前身である北斗秀明館が誕生。
自身の誕生日が4月8日。
この日が新学期の最初の塾の授業の日。
夢と希望に燃えて船出をした。
生徒数15名での出発だった。
(続く)