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中隆志

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中隆志(なかたかし)

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コラム

泣いて馬謖を斬る

2012年5月14日

 三国志時代の伝説的軍師であった諸葛亮孔明は、白眉という語源のもととなった馬良という武将の弟である馬謖をかわいがっていた。将来の自分の後継者と目していたようである。
 しかし、諸葛亮の君主である蜀を建国した初代皇帝の劉備は、「馬謖は、あまり重く用いてはならない」と言っていた。
 劉備の死後、諸葛亮は劉備の遺言である魏(魏志倭人伝で有名な魏である)を討伐するために北伐を開始する。

 このとき、諸葛亮は馬謖に軍を預け、敵との戦いに際し、「けっして山上にのぼるな」と厳命したのであるが、自らの才を恃む馬謖はこれを聞き入れず山上に陣取ってしまう。
 魏軍はこれを見て、山裾にある水手を絶つ。たちまち山上の蜀軍は渇し、魏軍にさんざんに打ち破られてしまうのだった。
 これが為に他の戦線も維持できなくなり、やむなく諸葛亮は北伐を断念する。
 軍令に従わず、全軍敗北のきっかけを作った馬謖の罪は重いと判断した諸葛亮は、泣きながら馬謖を斬ることを命ずる。関羽、張飛なき後の蜀軍には有望な武将が少なくなっており、馬謖を死罪にすることに反対する家臣もいたが、諸葛亮は、それでは軍令がいきとどかなくなるとして、自らがその才能を愛し、後継者にと考えていた馬謖を斬ったのであった。

 諸葛亮は馬謖を斬ったが、馬謖は諸葛亮を恨むことなく従容として斬られ、諸葛亮は馬謖の遺族が飢えないように処置をした。
 この逸話を見ても、諸葛亮は法家であったことがわかる。魏の曹操と同じく、韓非子の思想を是としていたのであろう。
 諸葛亮は、馬謖を斬るときに、その主であった劉備の人間を見抜く力が自分よりも勝っていたことを認めざるを得なかったであろう。
 何度か書いたが、劉備は徒手空拳で蜀の皇帝にまで上り詰めた人物であり、三国志演義に描かれたような聖人君子ではなく、もっとドスのきいた男であったから、人を見る目はあったのであろう。

 組織が円滑に活動するためには、どれだけ愛する家臣でも、功績がある家臣であっても、罪の前には平等であるという諸葛亮の思想も求められているのではなかろうかと思うのである。

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