ウルトラ木魚に込めた思い
昨日、千代田区の毎日新聞社内にある「毎日メディアカフェ」まで出かけてきました。「身じまい練習帳~終活を考える①」というタイトルで、毎日新聞社の瀧野編集委員と聖徳大学教授 長江曜子氏によるお話しを聞きに行ってきたというわけです。
もうすっかり耳に馴染んだ感のある終活に関する内容。そう珍しい話ではないものの、やはり残される家族にとっての配慮や準備といった部分が必要だということは改めて確認できたような気がします。
それを受けて、少しだけですが今感じることなどについて書いてみます。不勉強のため、不適切な部分があるでしょうがご容赦ください。
今のエンディングに関する分野の方向性は未だ定まりきっていないような印象を持ちます。例えば人が自らの死にあたって望むことを提供していく。これも確かに大切なことかもしれません。しかし一方で、望むから何でも提供するという姿勢にはいささか違和感をおぼえることもあります。何が目的であるのか今一つ判りかねるようなことも。
同様に終活に関しても、時として自分のための活動という部分が出過ぎているように感じることが正直あります。話の中で、米国では終活は自分の終いに関するものというよりも、家族を護るためのものという話が出ていましたが、本来はそうしたものなのかもしれません。
以前の日本人は、大家族の中で人の死に対し身近に接する機会がそれなりにあったわけです。つまりは段取りに長けた人が一人や二人は身内にいて、死に臨んでの準備の必要性も少なかったのでしょう。これが時代の変化で家族構成も変わり(核家族化等)、身内の死に対して慣れていない人が多くなってきています。
そうした意味で終活が求められる背景には、自らの、そして家族の「死」に対して多くの人が不安を抱いていることがあるのかなとも感じました。出来ることならば、単に時代に左右されるようなものではない、根底に日本人に合った普遍的な価値を持つ「終活」が定着することを願います。(普遍性≠没個性だと思っています)
このあたりはかなり主観が入っているので、戯言として聞き流していただくとして・・・。
お墓でもいろいろと困ることが
お墓に関しても、今まで主たる祭祀者(つまり施主)を務めていた人が亡くなったため、自分の家のお墓をどこの石材店で建てたのかがわからない。あるいは納骨や戒名彫刻をどこに依頼すべきか判断できなかった、といった話を伺うことがあります。
これは一つの例であって、他にも菩提寺がわからなかったとか、お墓の場所を知らない、果てはお墓の存在を知らなかったなど嘘みたいな話も耳にしたりします。
理想から言えば、お墓のことも本来は家族で共有しておきたい部分です。でも老夫婦と子供の世帯が離れていることは今や普通にあります。まして今後は親戚の数も少なくなってくるわけで、何もしなければこうした情報すら共有することはますます難しくなって来ると思われます。
理想はともかくとして現実を鑑みれば、そのギャップを埋めていく作業が必要とされてくるのでしょう。いずれにしても、不慣れと言っているだけでは済まない時代が来ているのですね。
また、よろしくお願いします。
ホームページのブログで「施工店の情報がこんな場所にもある」という内容の記事を書いています。
お墓に貼ってあるプレート。知っていますか?