「中立」という幻想 ~メディア編~
日本の刑事裁判の制度について、取り調べの全面可視化が実現しなかったことや、死因究明制度の推進が望まれるということを書いてきました。
客観的な証拠の重要性
そもそも、事実を見極めるためには、人の記憶や会話内容(「証言」や「供述」と言われます)といった主観的な証拠よりも、物の痕跡や解剖結果、物理の法則といったより客観的な証拠の方が重要です。
人間の記憶はあてにならない
人の記憶は、とても曖昧です。
例えば、みなさんは、今日から遡ること1週間の間の出来事を、どれだけ覚えているのでしょうか。
その1週間のうちに起きた出来事について、それがどんな出来事であったか、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか。
時間は秒単位まで、場所は数十センチ単位まで、方向方角、人の服装や髪形、その日の天気や周囲の様子まで、正確に覚えている自信はあるでしょうか。
私には、絶対に不可能です。
例外があるとすれば、自分にとってよほど強烈な印象の出来事であり、かつ、その出来事が起きた直後に尋ねられたため、一生懸命記憶喚起をした場合です。
そのような場合には、後々にまで強い印象が残ることはあるでしょう。
ですが、それ以外の場合には、細かいことまでは覚えていないというのが、通常の人間の記憶です。
たまに、「重大な事柄であれば記憶に残るはず」という言われ方をすることもあります。
しかし、人の記憶にとって大事なのは「その人にとって重大だったかどうか」という、主観的な重大さです。
あとで実は重大な犯罪だったことがわかったとしても、それがその人にとって強い印象を残すものでなければ、記憶に残るとは限らないのです。
この点は、実は裁判官も勘違いしているのではないかと感じることがあります。
「取り調べ」というのは、人の記憶から証言をとろうとする捜査方法ですから、取り調べを重視するというのは、このように、あまりあてにできない人の記憶というものを重視するということと同じなのです。
客観的な証拠は信頼できる
これに対し、物の痕跡や解剖結果、物理の法則といったものは、そう簡単に揺るがされることはありません。
殴られたとされる体の部位をよく調べれば、どんな固さのものでどの程度の力が加わってできた傷なのか、ある程度は絞ることができます。
死体を解剖すれば、特定の場所の傷が死亡前にできたのか死亡後にできたのかがわかることがあります。
時速60kmで走行してきた自動車が、急ブレーキでその場にピタッと止まるわけがありません。
こうした「動かし難い事実」を集めていけば、完全ではないにしても、少しずつ少しずつ真実に近づいていくはずなのです。
もちろん、進んで情報提供してくれる人の証言や供述を完全に否定する必要はありません。
ですが、人の記憶や会話内容に頼ってしまうことは、不確実なものに頼ることになり、非常に危険です。
そして、こうした主観的な証拠に依存することになる「取り調べ」という捜査方法もまた、非常に危険なのです。
物の痕跡や解剖結果、物理の法則といったより客観的な証拠がきちんと重要視され、より真実に近づけるような適正な捜査が実現されていくことを期待したいと思います。