子育ては母親の責任?
子どもへの怒りと親の期待
「子育てに怒りは付きもの」
なんてよく言われますね。
子どもが言うことを聞かない。
何回言ってもやらかす。
いらんことを言ったりしたり。
まさに“欲求と感情の塊“である
子どもに腹が立つなんてことは
多いのではないかと思います。
もちろん私も例外ではありません 涙
ところで、
親が子どもに怒りを覚える理由は
“たった一つ“
ということはご存知でしょうか?
その答えは
《親の期待通りになってくれない》
です。
怒りは「相手への期待」と「現実」のギャップ
そもそも怒りという感情は
「理想像の相手」
と
「現実の相手」
にギャップがある時の感情です。
その感情を使って
期待する状態に変えたいわけです。
例えば
●期待:子どもには従順でいて欲しい
↑
ギャップ→<怒り>→説教
↓
●現実:自分の欲求中心の言動
過度に怒りをぶつけられる弊害は「自分らしさ」の喪失
躾の中で子どもを叱ることはよくあることです。
そしてそれが悪いというわけでもありません。
しかし、怒りの表現方法が
・暴力や暴言といった攻撃であったり
・「見捨てる」という脅しを含んでいたり
・親(大人)の八つ当たりであったり
・一貫性を欠いていたり
すると子どもの心はダメージを受けます。
子どもは親から
・傷つけられること
・見捨てられること
を何より恐れる生き物。
どちらも子どもの命を脅威に晒します。
だからこそ、たとえ不本意でも
・傷つけられないように
・見捨てられないように
と「親の期待に応える」を選択するのです。
その結果、私たち親(大人)は
「子どもは思うように変えられる」
と誤認してしまうわけなのです。
そして、、、
スタート)
子どもが親の期待と異なる言動や選択をする
↓
親(大人)はそれに怒りを覚える。
怒りを使って期待に沿わせようとする。
↓
傷つけられる恐怖や
見捨てられる恐怖を持つ子どもは
不本意でもそれに従おうとする
↓
親(大人)は「うまくいった」と誤認する
↓
この悪循環が繰り返される
この
【相手の期待を行動指針にする】
というあり方を選択しているとき、
子どもは自分の“欲求“も“感情“も
後回しにしています。
言わば
「自分らしさ」
を失っている状態。
生きづらくなるのは
自然な結末ではないでしょうか。
この生きづらさは大人になっても続く
・相手の期待を行動指針にする生き方
それはイコール
・自分の感情や欲求を後回しにする生き方
この生き方が招く生きづらさは
子ども時代で終わることがありません。
過去とは違う環境で生きているにも関わらず
「私はどうしたいか?」
「何が大切か?」
ではなく
「相手は何を望んでいるか?」
「傷つけられないため/見捨てられないために、何をすればいいのか?」
によって行動を選択するのです。
この生き方はいろんな弊害を生みます。
例えば
・慢性的な心の空虚さ
・主体性や自律性の損傷
(翻って強い依存心)
・低い自己肯定感
・強い対人緊張
・「フリ」の生き方が招く慢性疲労
(いい人のフリ、強い人のフリなど)
・被害者意識と自己憐憫
・・・
どれをとっても生きづらいものばかりです。
生きづらさを連鎖させない方法は親の自己受容から
親の生きづらさが子に連鎖し、
その子が親になった時さらに次世代に連鎖し、
そしてさらにその子が、、、。
こんな不幸な連鎖は
気づいた世代で断ち切りたいものです。
そのためには何よりも先に
私たち親が生きやすくなることが大切。
そのための第一歩が
*自己受容
理想通りではないありのままの自分を
そのまま受け容れることです。
中でも自分の“負の感情“を
受け容れてあげること。
例えば我が子に腹が立ったときは、
「怒っちゃダメだ!」ではなく
「腹も立つよね」と自分に言ってあげる。
八つ当たりで怒ったとしても、
「私は親失格」と責めるのではなく
「人間だもん。そんなときもあるよ」
と自分に言ってあげる。
誰かが批判してきたとしても、
相手にフォーカスを当てるのではなく
「あんなこと言われて嫌だったよね」
と自分に言ってあげる。
こういったことの積み重ねによって
「私は私であっていいんだ」
と徐々に信じられるようになるものです。
すごい親になる必要はありません。
ちゃんとした親になる必要もありません。
不完全な自分を許してあげられると、
同じように不完全なわが子のことも
受け容れられるようになるものです。
その反対に
期待通りの自分しか受け容れられないと、
子どもを期待に沿わせることを
やめることが難しいままです。
ありのままの自分を受け容れる。
最初は難しいかもしれませんが、
身についてくるととても心地よいものです。
あなたにもありのままの自分、
親としての自分をそのままに
受け容れられる日が訪れることを
願っています。