第56回 特許庁と裁判所では技術を見る視座が逆
恩師西澤潤一先生が10月21日(日)午前5時14分に92歳で永眠されました。本書は、以下のような内容ですが、§11~13は恩師の業績の紹介です
(パブラボ社から2018/10/26から全国区の書店で発売されます):
プロローグ
§1 日本の特許制度の黎明期の重要人物として仙台藩士玉蟲左太夫がいる
§2 我が国の初代の特許庁長官 は、仙台藩の足軽の養子
§3 我が国の殖産興業の思想の源流の一つは、会津藩士山本覚馬の管見
§4 明治7年府県物産表による当時の東北地方の産業の分析
§5 明治13年には青森県の今野久吉が発明している
§6 東北地方の明治中期の登録特許で一番多いのは福島県
§7 東北帝国大学本多先生の産学連携
§8 鯨井先生が八木先生を仙台に送る
§9 東北帝国大学を基軸として日本の科学技術が進歩した
§10 日本のヴァニーヴァー・ブッシュは渡辺先生
§11 特許収入を基礎とした財団法人半導体研究振興会が仙台に
§12 西澤先生の発明が第2次産業革命の完結へのキーデバイス
§13 第3次産業革命は仙台で発生した
エピローグ
§1の仙台藩士玉蟲左太夫は、1860年(万延元年)に勝海舟、福沢諭吉らと共に米国に渡った第1回遣米使節団のメンバーです。日米修好通商条約批准書交換のための正使新見豊前守の従者として、玉蟲左太夫は本艦であるパウアタン号に乗船していました。
パウアタン号は吉田松陰が下田で乗り込もうとした軍艦です。勝海舟・福沢諭吉らは、パウアタン号の護衛艦の咸臨丸の方に乗っていました。
2018年10月7日のNHK大河ドラマ『西郷どん』の第37話では「江戸無血開城」が放送されました。「江戸無血開城」は、東征大総督(とうせいだいそうとく)下参謀(しもさんぼう)の西郷隆盛の英断であるとされていますが、実は、新政府に逆らう藩を討伐することを黙認する約束が、幕府の陸軍総裁勝海舟と西郷の間で結ばれていました。
即ち、慶応4年3月13日に勝海舟が西郷隆盛と会見を行ったときの幕府側の嘆願書の第7条には以下のように記載されています:
士民鎮定の儀は、精々行き届き候様仕るべく、万一暴挙いたし候者これあり、
手に余り候わは、その節改めて相願い申すべく候間、官軍を以て御鎮圧下され候様仕り度き事
無血開城の慶応4年4月11日に、海軍副総裁の榎本武揚は旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港しました。4月19日には、土方歳三らが新政府軍に味方していた宇都宮城を攻撃しています。5月3日は奥羽列藩同盟が、5月6には奥羽越列藩同盟が誕生します。
§1の玉蟲左太夫は、奥羽越列藩同盟の結成の中心人物です。榎本は説得されて、一旦品川に戻ったものの、8月19日に旧幕府艦隊8隻を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かいました。
東北諸藩は、江戸城無血開場で見捨てられたのです。勝の黙認を知った福沢諭吉は、勝を糾弾しました。福沢諭吉の勝に当てた私信である『痩我慢の説』(時事新報が1901年に公開)には以下のように記載されています:
家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管(ひたすら)和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於て一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷(そこな)うたるの不利は決して少々ならず
拙著『 反骨の風土が独創の力となったのか』は、江戸城無血開場で見捨てられた東北地方に、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)がライバル視した科学技術の潮流が流れていることを示すものであります。
しかし、プロローグに記載しましたように、明治4~5年の廃藩置県にも明治政府によるパワハラがあることを、明治政府の大蔵省預金局長であった兵頭正懿氏が暴露しています。
§10では渡辺寧元静岡大学学長がノーベル賞選考委員であったことを紹介します。拙著『反骨の風土が独創の力となったのか』の中では明示していませんが、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士、江崎玲於奈博士という自然科学系で1番目から3番目となる、3人のノーベル賞受賞には渡辺寧先生が関与されておられるように推測しています。
そして、悲運にも西澤潤一東北大學第17代総長はノーベル賞の受賞には至りませんでした。この事情は、半導体レーザの共同発明者となられていた渡辺寧先生がノーベル賞選考委員であったことが、裏目に働いたのではないのかというのが、鈴木壯兵衞の偏見であります。そう考えるのは、渡辺寧先生が没された後、1980年代の初頭から10年以上連続して西澤先生がノーベル賞選考の最終候補に残られるようになった経緯があるからです。
伝え聞くところによれば、1980年代の初頭のノーベル賞選考への最初の推薦は日本国内からではなく、外国からという話である。残念ながら、日本からは西澤先生にノーベル賞を受賞させないというネガティブな働きかけが、ノーベル財団にあった年もあると恩師から聞いている。
ノーベル賞受賞が一番確実視された1987年前後には、主要放送局全局のテレビ中継車がご自宅に押し寄せ、ご自宅がサーチライトで煌々と照らされる騒ぎが、毎年押し繰り返されていた。
1990年代半ば以降、次第に下火になったととはいえ、その後もずっと西澤先生はノーベル賞候補になられていたようで、今年(2018年)も関係者にはマスコミから問い合わせがあったそうである。
2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞された京大特別教授の本庶佑博士は、日本の基礎研究の劣化を危惧されています。西澤先生も、最近の東北大學から独創研究が出なくなったことを嘆いておられました。
しかし、明治初期の日本は、英国グラスゴー大學のケルヴィン卿(Lord Kelvin)から「世界の工学の中心は日本に移った」と言われた経緯があるのです(浅野応輔著、『ダブリユー・エルトン先生』、明治文化発祥記念誌、大日本文明協会、p41、1924 年)。
拙著『反骨の風土が独創の力となったのか』は、恩師から依頼された願いに沿うものであり、「反骨」=「日本武士の気風たる痩我慢」により、日本の研究者に奮起を促す書です。
先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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