がんの集学的治療に ぜひ併用して頂きたい要素とは
みなさま、今年もお疲れ様でした。この一年間どのように過ごされて、どのような変化があったでしょうか。筆者も後半になるほど多忙を極め、コラムも遅れてしまいましたが、経験値として今後に生かしたいと思います。
来年は何か新しいことを始めたり、よいことがあるように望んでおられることでしょう。年初めにそのように神に祈る方も多いと思います。「祈る」という崇拝行為は、動物とは違い人間だけの特権といえるだけに、改めて考えてみるととても意味深いことがわかります。
宗教が崇拝の方式だとするなら、その崇拝が正しいかどうかを決めるのは、花や趣味のように自分の好みで選ぶというより、神に受け入れられる崇拝かどうかのほうが重要であることを、常に考えに入れておきたいと個人的に思っています。
『神は霊であられるので、神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません』- ヨハネ4:24 -
真理は知識と関係があるため、儀式や形式や根拠の不確かな盲信ではなく、神や真理についての正確な知識に基づいて、霊と信仰をもって、心を注ぎ出す崇拝が神から求められていることがわかります。信仰心から祈るわけですが、では信仰とはなんでしょうか。聖書にはこう定義されていました。
『信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実態についての明白な論証です』- ヘブライ11:1 -
見えなくても存在するものについての納得させる証拠から、望んでいる事柄の権利証書をすでに得ているかのような希望や確信がもてれば幸福ですね。イエスは、からしの種粒ほどの信仰があれば、山のような障害も動かせると述べましたが、「死ぬ前に後悔すること」の本のランキングのひとつに「本当の信仰をもっていればよかった」という言葉があったのは印象的でした。誰もが本当の信仰を見出せているわけではない証拠だと思えました。たとえ死に面しても何があっても動じない信仰をもつために、人は人生や命をかけられる真理を探求してきたのではないでしょうか。
混迷した時勢に、みなさまが神に受け入れられる崇拝の方式を、賢く探し見出すことができますように。