若手が辞める理由の「スキル・経験は得られない」はただの手段に過ぎない
世の中で、守破離という言葉があります。
「守・破・離」とは、茶道や武道の修行のプロセスを3段階で表したものです。 守は「基本や型を身につける段階」、破は「既存の型を破り発展させる段階」、離は「基本や応用から離れ、独創的かつ個性を発揮する段階」を指すと言われています。
最近、為末大選手の著書で「熟達論」という本を尊敬する先輩より進められ拝読しましたがこれがとても良かった。羽生善治や日本代表サッカー選手、囲碁のレジェンドなど様々な人と引退後に対談した中で、頂点に上り詰めた方々の道を極めるプロセスを紐解いた一冊でした。
守破離は基本の型から発展させ、そして応用から個性を発揮する段階があるが、熟達論では守の前に「遊」があると言っており納得した。なんでも楽しめるかどうかが全てである。仕事でも遊びでも楽しいから続けられるし、楽しいから学ぼうと思う。楽しいから勝ちたいし、楽しいから極めたいと感じるものである。
私自身、小学校では剣道をやっていたが半ば兄たちがやっているからと強制的に習っていて、県でベスト4程のレベルまで到達したが面白いとは思っていなかった。中学では、友達の多くがサッカー部だったからという理由で入り、高校までサッカーをしたがのめり込む程の情熱は生まれず、朝練を毎日皆は能動的に参加していたが、私は唯一一度も行かなかったくらいだ。
でも、仲間と過ごす空間で一緒にプレーするという事はとても好きで、それがサッカーでなくても良かったという点では何でも良かったのかもしれない。結局、大学受験後も高校サッカー選手権大会まで残り(最後の大会)、県ベスト4と楽しい時間を出来る限り過ごせた。
著書で遊は、型にはまらず思い切りを試す場で細かいやり方などは気にせず自分の全力のありのままを試せと書いてあったが、今の世の中情報が多くどうしても型から入ってしまう。そう思うと、うちの子供はドラえもんの転がしてゴールまでボールを導くおもちゃまでロボットに見立て遊んでいるのを見ると、枠にはまらない大切さを感じる。
熟達論では、「遊、型、観、心、空」という五段階で流れを作っている。
自分のありのままから、スポーツの共通となる軸を学び、その動きの中で個々に重要性を磨くように観る、その後意識的に自分の個性に向き合い独自性を探し、最後は無意識に夢中に全ての能力を自分なりに活かし使い切るという流れである。
大切なのは、自分らしくいられるまでには必ず型があり、個性を知るまでには鍛錬があって初めて見につくものと著書で入っており、その通りだと感じる。
是非、皆さんも一読してほしい著書です。自分を知るには一生かかるが努力は惜しまないことで軸を大切にできると信じています。