止め、ハネ、払いで正誤判断をする教育の失敗

仁田楓翔

仁田楓翔

ひらがな・カタカナ指導が「罰」になっている愚かさ


ひらがなやカタカナの学習において
「止めが違います」
「ハネができていません」
「払いが足りません」
と赤字で訂正される指導は
今も多くの教育現場で行われています。

しかし私は、このような形の正しさだけで正誤を判断する教育に、大きな違和感を覚えています。

読めているという事実を、私たちはどう扱っているのか


たとえば、子どもが「コンビニ」と書いたとします。
止めやハネ、払いが教科書通りでない部分はあるものの、教師も、保護者も、そして子ども自身も、それが「コンビニ」と書かれていることを迷いなく理解できます。

つまり、
文字として認識できている
音と形が結びついている
言葉として意味が伝わっている

この時点で、言語としての役割はすでに果たされているのです。

それにもかかわらず、止め・ハネ・払いが不完全であるという理由だけで「×」をつけ、書き直しを求める指導は、本当に「正しい評価」と言えるのでしょうか。

それは指導ではなく、罰になっていないでしょうか


本来、文字の形は、繰り返し書き、経験を積む中で
徐々に整っていくものです。

ところが、最初から完成形を基準にして不完全さを否定し続けると、子どもは次のように学習してしまいます。

「正しく書けない自分はダメだ」
「書くと直される」
「書くことは怖い」
これは文字指導ではありません。
学習が罰として機能してしまっている状態です。

目的と手段が逆転しています


文字は本来、考えや情報を伝えるための道具です。
しかし、止め・ハネ・払いを絶対的な正誤基準にしてしまうと、学習の目的はいつの間にか
「伝えること」から「怒られない形で書くこと」
へとすり替わってしまいます。

その結果、
内容より形ばかりを気にする
書く前に手が止まる
自分の言葉で表現することを避ける
こうした姿勢が育ってしまいます。

学習指導要領の趣旨とも一致していません


文部科学省の学習指導要領では、正しい字形で書くことは指導内容の一つとして示されています。

しかし、それを正誤判断の唯一の基準にするとは記されていません。

止め・ハネ・払いは、「整えていく対象」であって、
「排除するための基準」ではないはずです。

本当に問うべき問いがあります


ここで、あらためて問い直したいと思います。
訂正できるということは、すでに読めているのではないでしょうか。

もし読めているのであれば、その段階で育てるべきなのは、

書こうとした意欲
伝えようとした内容
自分の言葉で表現しようとする姿勢

ではないでしょうか。

教育は、完成度を裁く場ではありません

教育とは、未完成なものを否定する場ではなく、
未完成な状態からどう育てるかを考える営みです。

止め・ハネ・払いだけで正誤を判断する教育は、
その本質を見失っています。

それは教育の失敗であり同時に、学びの意味を取り違えたきわめて短絡的な判断だと言わざるを得ません。

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仁田楓翔
専門家

仁田楓翔(塾講師)

BesQ

自己肯定感を育て、子どもが自ら学び始める仕組みをつくる教育。小さな成功体験を丁寧に積み重ねることで、「できない」から「できた」に変わる瞬間を設計し、やる気に頼らず成績と意欲を同時に伸ばします。

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