“できない”の裏側にある声を、聴ける大人でありたい― BesQ・代表仁田楓翔のコラム ―
「できない子」ではなく「わからない“かもしれない”子」
塾という場は、どうしても「成績を上げること」に重きが置かれます。
もちろん、それは大切なことです。
ですが、私が長年多くの子どもたちと接してきて感じるのは
「この子は本当にわかっているのだろうか?」
「理解した“ふり”をしていないか?」
という視点を持ち続けることの大切さです。
これは、「甘さ」でしょうか。
いいえ、教育の本質に近づくための姿勢だと私は考えています。
わからないかもしれない」――問いかけは信頼の始まり
「これわかった?」と聞いたとき、「はい」とうなずく生徒は多くいます。
でも、その“はい”の裏に、本当の理解があるとは限りません。
「恥ずかしくて言えない」
「何がわからないかも、わからない」
「聞き返したら迷惑だと思われそう」
そうした“かもしれない”の世界に、子どもたちは生きています。
だからこそ講師は、「この子はわからないのかもしれない」という想像力を常に持ち、
丁寧に確認し、安心して聞き返せる雰囲気を作る必要があるのです。
「思っていることがあるかもしれない」―言葉にされない声を聴く
たとえば、問題に対して反応が鈍いとき。
「やる気がないな」「集中していないな」と捉える前に、こう考えてみてほしいのです。
「もしかしたら家庭で嫌なことがあったかもしれない」
「学校で何か悩みを抱えているのかもしれない」
「言いたいことがあるけれど、言葉にできないのかもしれない」
この“かもしれない”の積み重ねが、子どもとの信頼関係をつくり、結果として学びの姿勢にも変化を生みます。
「一人の人間として向き合う」――教育の原点
子どもを「成績を上げる対象」ではなく、「一人の人間」として見ること。
それは指導者としての優しさであると同時に、プロフェッショナルとしての強さでもあります。
目の前の子が、何を考えているのか
どこにつまずき、どう助けを求めているのか
そして、どんな可能性を秘めているのか
そうしたことを想像し、受け止め、応える。
その姿勢が、教育者にとって最も大切な“力”だと私は信じています。
「こうあるべき」よりも、「こうかもしれない」。
その少しの揺らぎが、子どもたちの心に届く道をひらきます。
私たち指導者が、確信よりも“かもしれない”を大切にできる世界でありたい。
それが、塾という場所の価値をさらに高めることにつながるのではないでしょうか。



