似て非なる言語-そうだったのかー│No.1「自律とわがまま」「面倒臭いと億劫」
心理学視点から説く│ゆとりと余裕の違い

「ゆとり」とは、心的対象がメタ言語(言語が指し示す対象が存在しない)であること。故にそこには境界も限界も意味も存在しない無制限であること。例えば、お金はいくら貯金があれば「ゆとりを感じますか?」という問いに、人は各々の額を言うだろう。その境界は一定でなく、枠付けもない。いわば座標軸が存在しないため、普遍化は出来ない。
「余裕」は、時間・空間などの座標軸の設定により規定出来るもの。「仕事」に余裕もってしているか、生活スタイルに余裕をもって仕事と遊びのバランスがとれているか等々、対象は現実界の時空に制約され、その中での余りが余裕となる。暇も余暇というように、余りと感じられる隙間があることで定義される。
仕事は業務でスケジュールと手順は管理され、自由な時は存在しない。だから残業がある。本来仕事は、隙間なき労働で、そもそも余裕はない。故にストレスで寿命を縮めるのである。
生きる上で最も大切なことは、心にゆとりを持つことである。換言すれば、「ねばならぬ」からの解放である。何ら規定も受けない無意味な時間を過ごせることがこの世の最上の幸せである。その極みは、座禅と瞑想である。この二つは無為で共通している。何もせず只管打座するだけ。唯座っているだけ。この無為な時空こそ、人間が生きている中で、最も安心・安全でかつリラックスしている情況である。これを至福の時という。
ならば、この世で最も仕合せな人達は、僧侶ということになる。世俗を離れるとは、出家する。即ちゆとりのない世俗からの離脱することだった。生きる目的も野心も欲もなく、仏になることだけを目指して日々座り続けることを行とする僧は、幸福時間享受し続けられる稀な幸福人ということになる。
心理学視点から説く口癖│「やってられない!」とは

この言葉は、言い換えれば、「ふて腐れる」である。
「間尺に合わない」と言ってもいい。だから「やってられない」と開き直る。これらの言葉の根底にあるのは、損をした、割に合わないという利害にある。自分が期待した報酬や利益が少なかった場合、不満を抱く。不満は胸算用を立てた数字と現実の数字の隔たりから生じる。
人は常に現実とのやりとりにおいて、利害損得の計算をしている。その数字を当てにして、物事の筋道を立て、その予測、即ち思い込みにより生きている。それが著しく異なれば不満となり、怒り出すのである。
人により胸算用の方程式は異なる。経験値や社会情勢、相場、期待などを公式化して、計算してはじき出す。それにプラスαも加わる。「魚心あれば水心」と。益々計算は複雑になり、事はこじれていき、遂に当てがはずれた地点で「やってられるか!」と捨て台詞を吐いてしまう。
そこで宗教は教えを説く。「すべてに感謝」と。どうしたらその心境になれるのか、人は外からの何らかの助けや思いやり、支援を求める、自らの安心・安全に、そして楽に生きたいと願っている。それ故、他の施しの心に欠ける。これを仏教は我欲と説く。それは物事への執着が作り出すもので、それ故、それが得られない時、煩悩が生じる。これを「求不得苦」といい四苦八苦の一つとする。
感謝は、零から始まる。人は何も持っていない、すべて与えられて生きている。いや、生かされている存在と言う。これを「無」といい、無一物という。人は何も持たず、裸で生まれてきた。何も持っていない。それが、自然や人からの恵みで生かされている、という事実を知れば、自ずと感謝が生まれる。
要は、「無」の心を持てば、すべてはありがたいことなのである。
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