第4章 欲望とa 『5.対面』
【精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす】
第5章 言葉を超えて、享楽の果てへ ~ アンコールの先にあるもの ~
『6.ゆとり』
大衆文化
最近の歌番組で思うことは、ソロ歌手が居ないことである。悉く複数と集団のグループの歌と踊りのパフォーマンスになっている。歌を聴く、聴かせるではなく、歌を見せているのである。独唱歌番組は、BSの日本の歌謡曲でしか聴くことは出来なくなった。それと7時代のフォークソングやニューミュージックの名だたるソリストたちは、今尚健在で、ドームを一杯に埋め尽くしている。
独りの歌だけで何万人というファンが集まり、その歌声に酔いしれる。踊りはない、唯会場に張りめぐした花道を、走るだけであったり、ステージ上でマイクスタンドを振り回す程度の動きしかない。踊りはしない。ダンスできる年齢でもなく、体は固く、決してしなやかに体を動かして歌うなどといった曲芸はできない。ひたすら歌うのである。その歌声は70歳を過ぎた今も、ファンを魅了する力がある。声の力である。
今の歌い手の人達に、その声の力を感じることは出来ない。在るのは派手な動きと体全身を強打するリズムの突き上げによる狂乱する心の叫びと熱狂する聴衆の声援。派手で奇抜な衣装に身を包み、ステージ一杯に動き回る彼ら、彼女達は、皆同じ顔に見えてしまう。個が見えない。メロディーも詞も心と脳に入ってこない。心に響かない、情景も浮かばない、色も見えない、唯リズムと躍動している人間の動きだけが見える。
歌は聴かせるものではなく、見せるものになってしまった今、ソロのアーティスト達も、次第に舞台を去り、現れなくなる。その時、この地上から歌手は消える。残ったのはクラッシック界の声楽家だけになる。大衆の人々の前で歌う歌手は、もう現れなくなる。
こうして一つの大衆文化が消える。他にも消えていく文化がある。芸能、祭り、行事、地方演劇等々、地方の文化が、後継者がなく、高齢化した村など、それを執り行う人達が居なくなる。そして、文化が消える。
大和魂
人間の営みは、唯食べて、働いて、生きて行くだけではない。生活を豊かにする遊びが不可欠である。遊びは娯楽であり、非日常性を有していなければならない。生活は社会システムの保全と発展のためにその基盤として確保される。義務遂行だけで生きていくのでは、生きている喜びがない。
喜びは熱狂から生まれる。そして人々のつながり、即ち連帯から集団の力を作り、それが個の生きて行く上での力となる。それが祭りという形式である。そこにその形式の不変と継承には、絶対の象徴が要る。それが神で、神社の役割なのである。その神社を氏神といい、日本全国に鎮座している。これが日本の民族の原点に在る。その心「和」である。協力し、たすけ合い、支え合って、皆で手をつなぎ、共に生きていく平等利益の精神こそ、日本人の大和魂といわれる本質である。
人間は何処へ行こうとしているのか

村の祭りの形態が、現在の集団で歌うあの形式に変わったのかもしれない。歌って踊って、まるでお祭り騒ぎの様相を呈している。文化も時代と共に変容していくものかもしれない。若い男女達のステージパフォーマンスは、全く理解できないし、何も伝わって来ない、昭和世代の人間には。
現代文化に何か物申す訳ではない。老人は黙って去るが、世代間ギャップは、地球人と宇宙人の差があるとだけは言っておきたい。これほど大きな差異が生じるとは思ってもいなかった。もっとゆるやかに、グラデーションがかかり、なだらかにスロープしながら変わっていくものだと勝手に思い込んでいたが、それは間違いだった。物事、時代、世相は、今や急激に、一気に、突然変化するのである。
誰がこのストリームを作っているのだろう。大衆の無意識か、時代の要請か、企業の誘導か、流行の操作か、ネットワークビジネスの戦略か、はたまたAIか。その原因を知ることに意味はなく、それより、時代はどこへ向かっているのか。はたまた、人間は何処へ行こうとしているのか。この文明、科学、文化の行き着く先は、何処なのか。そして何を求めて人類は文明を進化させてしまったのか。
便利さと快適さ、それにスピードを求めた結果が今なのだ。もっとゆっくり、じっくり、人生を味わいながら生きて行きたい。そうしたら、そんな人類の歴史があった筈。
それは「ゆとり」である。
5-5『矛盾』⇦
➩ セラピストの格言
➩ 精神分析家の徒然草




