精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第五章-3

大澤秀行

大澤秀行

テーマ:人間とは何か


第五章 言葉を超えて 享楽の果てへ『3_生命』



神の領域


生命科学は生命の領域まで踏み込み始めた。
男の細胞から卵子をつくり出そうとしている。理論的にそれは可能で、男女共の細胞から卵子をつくり、受精させ、生命を誕生するところまで来ている。いわば神の領域にまで、人は足を踏み入れ生命を操作しようとしている。

子供が欲しくても産めない夫婦にとっては福音であろうが、果たしてそれが人類的視点からみていかがなものか。個人の欲望としては有り得るだろうが、こと生命は人類的視野で把(とら)えることが必要ではないか。


人間の生命とは何か


人は生命の維持と存続のためにだけ生きているのであろうか。人間の生命とは何か。そもそも人間がこの宇宙に存在している意味も理由もない。唯、宇宙の営みの一つの現象でしかない。

しかし、宇宙を包み込んでしまう思考力を人は持っている。宇宙の果てを考え、計測し、理論化しようとしている。広大無辺な思考力と知性を備えた人のすべきことは、神の領域に入っていくことではなく、神と対峙することではないか。

物質を構成する宇宙の中で、物質を超えた何かを知ることこそ、人間が存在している理由ではないか。理由が解った処でどう仕様もないが、知ることの倫理と正義がある。人として存在する限り、それは人倫である。人として、人はどうあるべきか、如何なる存在なのかを定義できてこそ、人の歩むべき正しい道である。肉体は有限な存在だが、人倫は永遠である。その道を歩むことが、正義である。


存在と無

人を人たらしめることは、この人倫を歩むことと、正義を貫くことである。生命とは限りがある。存在と無、1と0である。この1,0,1,0,……を繰り返して行く、歴史的明滅する光のような存在が、生命である。在るといえば有り、無いといえば無い存在が生命である。

が、人の心は在るの一つである。それを無に出来るなら、人は喜んで無にするであろう。しかしそれを無にする術を持たない。聖者はそれを見つけた。


心を無にすることを、生命を持った存在でありながら、心の中に無を発見した。それが聖者である。一般人は、心に複雑な想いを描き、数多の欲求と欲望の坩堝を抱えながら生きている。

何一つ満足することなく、飽くなき欲求に突き動かされながら、人は煩悩を百八、或いは八万四千もの苦を抱え、生きざるを得ない。煩悩即菩提とは、簡単にいかないもので、七転八倒しながら、足掻き苦しみ、そこから抜け出そうとするが、蟻地獄にはまったように、中々抜け出せない。

矛盾を超えて、意味を超えて、言葉を超えて

心は肉体を超えて、何処からか自分自身を見ている。生命を超えて、自己とは何か、人間とは何か、生きるとは何かを問いかけながら生きている。その問いから目を背けたなら、人は虚無に襲われ、無に帰する。答を見つけるまで、人は生きざるを得ない。どんなにそれが苦しいことであろうと、人は意味を生き、意味を捨てて生きるしかない、矛盾した存在なのである。

矛盾を超えて、意味を超えて、言葉を超えて、その向う側にある、何かに向かって進むしかない。振り返っても、そこには何もない。


無・意味



意味の向う側に何があるのか。それは大自然を前にしたり、道端の草や花、石ころを見ているあの瞬間に見たものこそ、無意味ではなく、無・意味がある。意味が切り離された物だけがある。
人に対しても、人の意味を抜けば、そこには生命の営みだけが見える。それは奇跡を目の当りにしている瞬間である。

仏像は人に似せて創ったものではなく、仏像の姿に似せて人を作ったのである。その時、生命の奇跡を見たことになる。

三次元では仏像は動かないが、四次元以上の次元に存在する仏像達は、縦横無尽に時空を無数に飛び交い、我々人間を高次元から見ているのである。四次元を表せないので、時間軸のない三次元では、静止している。坐禅は仏と一体の姿を表している。

5-2『煩悩』⇦

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大澤秀行
専門家

大澤秀行(精神分析家)

合同会社LAFAERO1(ラファエロワン)

精神分析家として34年の臨床実績があり、現在もメールや電話も合わせると、一日平均10名の精神分析によるセラピーを行っている。

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