精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第五章-2

大澤秀行

大澤秀行

テーマ:人間とは何か



第五章 言葉を超えて 享楽の果てへ『2_煩悩』




生の生と構造化された生



仏教は「空無論」において、意味を排している。色即是空、空即是色をこの世の実相として、すべては幻と説き、それに執着、拘泥することの愚かさを説き、それを捨てよと諭す。

ラカン理論もそれを説く。差異によりつくられる意味を構造化された生といい、その逆方向の意味をなし崩しにしていく構造を生の生と言う。これを順方向といった。いわば正の方向と。負は構造化していく意味で構築した生を言う。

いずれにしてもお釈迦さまと同じことを逆方向弁証法的に述べたのがラカンである。空海はそれを地上の立体曼荼羅として四国八十八ヶ所の遍路として表した。いずれも1から88を順方向といい、88→1番目に歩く遍路を逆うちといった。ラカンのいう構造化された生への順番である。


言語以外は幻

いずれにしても意味を排し、生の生を生きることが享楽する人間のかたちだと言っている。1250年を隔てて、現代に空海の説く、真言密教の真髄がラカンによって、科学として表された。私はその両者に触れて、人間の心の真理に触れることが出来た。それを一言で言えば、「すべては言語である」。言語が物質化し、言語だけが存在している。他はすべて幻である。


言語を捨て、宇宙と対峙した時、そこに在るのは、流れである。万物流転こそこの世の姿である。その中で生きている人間も又流転する。心は動かない。不動にして永遠である。心は時空に縛られてはいない。その証拠に、心は過去にも未来にも自由に飛んで行く。時空を超えて心は宇宙を自由に旅できる。過去も未来も変幻自在に移動する。

肉体の三次元に閉じ込められているのに、心は自由。その自由な心は肉体という身(むくろ)の中に蟄居しているが、時々そこを飛び出して、自由になることがある。それは意味を断ち切った時に出来ることで、稀にしか生じない。普段は意味に従い、意味に抑えられて、身を、即ち現実界を脱出できない。


自由を奪う煩悩


人間の心をこの世に縛り付けている正体を、仏教は煩悩と説いた。それは108あるとした。それは貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴の三毒によってつくられる。煩悩は三毒に依るが、それはどうして人間の心に在るのか、備わっているのか、機能してしまうのか。

仏教は、生への執着からすべての苦は始まり、そこから楽になりたいと欲が生まれ、煩悩が生じるとした。要は生きていること自体「苦」と説いた。それが、生・老・病・死であり、人生を生きていく中で、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の八つの苦しみに把(とら)われる。

要は苦をもたらす精神構造を持っているのが人と説いた。仏教は既に精神科学の領域に足を踏み込み、説き、その煩悩から解脱するための行法も生み出した。それが今日まで、寺と修行の形で教えを伝承している。仏教は精神科学と行動科学が統合された、セラピーの完全形態である。


行動科学は、座禅や瞑想に始まり、千回回峰、滝行、火渡り、求聞持法、断食、托鉢、布施、物施、法施等々、数々ある。それはすべて修練、修業、荒行といわれ、心頭滅却して煩悩を払うための行である。


受け容れる勇気と寛容さ


精神科学はそれではなく、「気付き」によって、己の心を知り、その構造を払ったり、書換えて作り変える。そこに「行」は必要ない。荒行もない。唯々、自己と向き合い、己の心を知り、それを払うだけである。使うのは、それと向き合う勇気と、己を言語化する知性と、気付いた己を受け容れる勇気と寛容さである。

多くのクライアントは、気付きはするが、その自分を受け入れる処で、止まってしまう。惨めで醜い自己を認めることが出来ずに、気付きを排除してしまう。

仏教はそれを行によって払い除ける。醜悪な自分であることを前提にしているから、気付いた時の自己嫌悪から逃れることが出来る。それが「行」の効果を高める。


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大澤秀行
専門家

大澤秀行(精神分析家)

合同会社LAFAERO1(ラファエロワン)

精神分析家として34年の臨床実績があり、現在もメールや電話も合わせると、一日平均10名の精神分析によるセラピーを行っている。

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