精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第一章-3
第四章 欲望とa 『1_目覚めよ』
現代人は本能の代りに何を手にしたのか
本能を持たないホモサピエンスが現代人になって、本能の代りに何を手にし、何を内在化したのか。その代償として失ったものは何か。確実に現代テクノロジーを本能として手にした代りに「考える」を失った。
人間からすれば、動物の知覚は超能力である。何千kmも離れた椋が互いにコミュニケーションしたり、闇の中を自在に飛び交うコウモリや、120kmで草原を疾駆するチーター、天空から一気に地上の獲物を戦闘機よりも俊敏に、正確に把えるタカ等は、知覚と運動能力において、人間をはるかに凌いでいる。それを人間は、PCとテクノロジー、科学を使い補っている。生身では到底適わない動物に対してのハンディキャップを科学力で埋め合わせているが、所詮人間は、生き物としては脆弱だ。
生物としてそれほど脆い存在のホモサピエンスが今日まで生き延びてこられたのは、世界に存在しない物を、思考と手先の器用さで、道具を作ることが出来たことである。道具はすべて人間の力不足を補うものだった。泳げなくも潜れなくも船と潜水艦をつくり、飛べなくも飛行機を作り、走れなくも車をつくり、大量に運べる列車をつくり、重い物を持ち上げるのに重機をつくり、テレパシーの代りにインターネットを整備した。
新の思考:生存から実存へ
こうして人間は文明の超人となり、生き物としての潜在能力を死滅させた。特に脳の劣化は甚だしい。科学の進歩は脳の進化を表し、人類の進歩に貢献して来たかの様に見えるが、それは単なるロジックの積み重ねで、脳の思考の進化を示すものではない。新の思考は、真理と対話できる脳による、新しい世界の創出である。
人間の科学技術は、人間の生活を快適に、そして便利にしただけである。comfortにしただけである。それでは唯気楽に生きているだけで、何かを感じ、何かを考え、真理に近づいて生きている訳ではない。唯存在しているだけである。
生きるとは、生きていることに喜びと意味を見出し、真理に触れた永遠との一体感に浸る至福の時を迎えることができること。それなくして唯のcomfortでは、唯の生活であり、生存でしかない。生存から実存へと向かう存在こそ、人間の生きるという行為である。それには、「欲望」と「享楽」が必要だと説いたのが、ラカンである。
享楽とは三位一体「シアワセ」
彼の師であるフロイトは汎性欲論を唱え、世間の非難を浴び、理解されることなく既成の考えによる批難を受け、人間の本質から目を背けようとする大衆に苦しめられた。ラカンはそれを欲望と享楽へと書き換えた。
しかし、ここでも欲望の意味が誤解されそうなので、一言言い添えておく。この欲望は、主体が失った意味としての享楽を言う。生理的欲求や性欲を指すものではない。飽くまで、象徴的意味が先ずあることは明記しておく。それに身体の性感帯が関与した時に生じる肉体と心とイメージの三位一体を享楽と言った。
この三位一体に、PCもインターネットもアバターも、映像も要らない。生身と、異性との交流があればいい。言葉と身体、身体と感情、感情と愛があれば、人はそこに「シアワセ」を感じ、それを生み出すことができる。
目覚めよ

人類が存続して来たワケは、このシアワセを生み出すためなのだ。文明・文化や化学・技術を進化させるために生存してきたのではない。生命と生命が対話し、共に助け合い、協力し合い、対話しつつ交流を深めるために、この地上も生物も用意されたのである。神の作った「調和」のレシピを、人間が壊した。神の再三再四の警告にも関わらず、人類はその声を無視し、むしろ反して応えた。
私の心は「平和の祈り」と共に、パッサカリアのモチーフのようにいつも「目覚めよ」と、低く地を這うように流れている。
3-6『本能とは』⇦ ⇨ 4-2『自分を生きる』
➩ セラピストの格言
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