精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第四章-1
第三章 精神世界の構築 『4_欲望』
象徴界・想像界・現実界を結ぶΦ(ファルス)_ボロメオの結び目
Φはどこにあるのか。
その前に、そもそも人間が生きている世界はどう定義したらいいのか、先ずそこから考える。ラカンは、象徴界(S)、想像界(I)、現実界(R)のトポロジーの中に生きていると定義する。図にすると、下図になる。
この R、S、I はバラバラで辛うじてΦによって結ばれている。これをボロメオの結び目という。要は、R、S、I は全く別物で、接点も連結もなく、重なっているだけで、Φによって辛うじてつながっている危うい存在を生きているのが人間だと言っている。
主体の誕生の現場

意味を生きる人間にとって、自分が何者かが、その基点となる。初めに「私」とは何かの規定がない限り、人は意味を生きることができない。意味は差異でしかつくれない。その差異は比較する参照項があってこそつくられる。
基点となる最初の参照項は否定によってしかつくることができない。それは否定の前に是認があるからである。「是れ」と認められて初めてその否定が可能になり、その否定により「私」が 他者に抹殺された形でこの世に表れる。これが主体の誕生の現場である。他ならないこの否定をしたのが「父ーのー名」、即ち「父」である。これは生物学的父でもよいし、父のように権威ある人も、言葉でも、社会でも、言語であればいい。
この父の否定なくして人は人になれない。なれねば、人真似をしたり架空の人になったり、想像上の人に化けたり、他者に成り切って振る舞うコピー人間になるしかない。およそ個性などというオリジナリティーは全く持たず、フリをしながら生きていくことになる。
欲望を通して己を知る
最初に否定された私をΦという。しかし、この最初の私が何者として是認され、否定された私から逆算することでしか判らない。この否定されて代わりにつくられた私が何者かの規定も判らない。自覚できるのは、その先の私、即ち、何かを欲し、何かを求め、何かを目的にし、又あるいは目標や理想を掲げて、それに向かって行動する自我が見えた時、人はそれを欲望と気付き、私が何に向かって生きていこうとしているか気付くのである。
人は己を欲望を通してしか、知ることは出来ないのである。欲望がなければ「私」は存在しない。欲望は言語でしかない。達成、成就してしまえばその言語は物質化し、消える。アスリートが金メダルや新記録を手に入れた瞬間その文字は消える。
文字である限り、欲望はその命脈を保ち生き延びるが、手に入れてしまえば、欲望は死滅し、現実という残骸がそこに在るだけだ。又新たに文字をつくらなければ、欲望は生まれない。欲望はそこにそれが無い限りにおいて欲望である。いわば幻想こそ欲望の本質ということになる。皮肉にも幻のほうが、現実よりはるかに美しいのは人間の悲劇といえる。
欲望とは:現実界に欠如した「モノ」の言語

現実は欲望の次元での幻想である限り、人を魅了し、誘惑し、ときめかす。現実は何とつまらないものであろう。唯の物体でしかない。
人間が真に私であり、私を生きているのは、この幻想のさ中でしかない。欲望無き人間は、唯の生物である。欲望は現実界に欠如した「モノ」を言語にしたものである。欲望は「欠如」を表すと言っていい。
人はこの儚さを知っているから、目標を欲望の対象といわず「夢」といった。夢を叶えることが、人間の生きる目的や意味であるかのように幻想をすり替えた。叶わぬ夢などない。元々、現実界の欠如からつくられたものだから、人は真の叶わぬ夢を持つことは出来ない。所詮夢など人間には描けないのである。
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