精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第二章-2
第二章 心の誕生 『6_祈り』
人類よ目覚めよ
人間の心を定義したのは、古来道徳と倫理と宗教だった。それで事足りた時代は過ぎた。後に哲学と心理学が人間の心の再定義を引き継いだが、それは不充分だった。今や人間を定義できるのは、精神科学のみである。
人間の心を科学として、対象化出来たのは、フロイトの業績である。そしてその後継者になったのがラカンである。「人類よ目覚めよ」と言いたい。人類の救いの道は、この二人の偉人によって開けられた知の光明に触れ、一刻も早く人間として目覚めよと言いたい。
心は世界と精神世界を結ぶ媒介物
何がその知の光なのか。それは「言語」がその対象であると気付き、それを物理と数学によって解明し、理論化したことである。その体系こそ知の光によって明らかにされ、視覚化された。
心は人間にとって、世界と精神世界を結ぶ、媒介物なのだ。物質から精神への触媒なのである、心は。物質界を知覚し、それを脳が構成し、その全体の認識により、自我が生まれる。それは対象表象の世界に対して、それを認知した存在を自己とする自己表象が生まれるのである。この対象一自己の一対の表象世界が、精神世界の橋渡しをし、文字だけの精神世界が構成される。
世界の知覚において、自我の総体の自己の誕生は、世界に働きかける能動的自我の発生により、自我は二つに分裂する、認知と行動の二つの自我が一対となって自己を形成し、世界に係わる人間がそこに生まれ、世界は、人間の自己=心を表す舞台となる。
自己を表現出来る舞台で演じる演目は「私利私欲・世界制覇」だった。故に戦争が絶えない、悲惨な星になってしまった。「愛と平和のパラダイス」の舞台は想像の世界だけにしか存在しなくなって、その出番は永遠にやって来ないかもしれない。
意識の変革
世界を救う、否、人間の心を救済するのは、「意味の病い」の克服である。これをラカンは「シニフィアンの病い」と言った。人間は知っている。世界中で市民がシュプレヒコールを叫びながらデモ行進を、スローガンの書かれたプラカードを掲げてするのは、正に言葉と人間独り独りの意識の変革であることを知っているからである。
しかし、治政者は欲にまみれて、その心を知らない。無力だ。この地球はただ一人の人間の心を持った治政者で救えるのだ。しかし、その唯った一人のその人間が居ない。
心はどこにあり、どこに向かっているのかと問わざるを得ない。既に人類は「心」を求めていないのかもしれない。心が何なのかも忘れているし、何が心なのかも解らないで日々過ごしているようにしか見えない。
歓喜の歌、心を取り戻せ
ネットをみるのではなく、人間の瞳を見よ、と言いたい。人間同志が語り合うのに最も必要とされるのは、心である。相手の目を見ながら交わす言葉こそ、心の表れである。その言葉と共に、言葉の中に心があるのだ。もう一度、気付けよ と言いたい。
人間が心を取り戻せば、まだ救いはある。取り戻す心とは、人と対話することである。スマホを捨て、指で文字を打つのではなく、心で文字を紡ぎ、それを発音するのだ。そこに、個人個人、一人一人の魂のメロディーが乗る。
言葉に魂の息吹きが奏でられ、人と人とは共鳴し、美しいハーモニーを作る。それが人類の「喜びの歌」と、即ち「歓喜の歌」になる。ベートーヴェンが夢みた第九交響曲のフィナーレが実現するのである。
今こそ人類は歓喜の歌をこの地上に出現させなければならない時に来ている。それには一日も早く、心を取り戻す必要がある。
祈り

目覚めよ、気付けよ、そして立ち上がれ、平和のために、世界中の人々が心を一つにして祈る「平和」の言葉。これを80億の人が一斉に声にしたなら、人類は、甦れる。再度、地球は生気を手に出来る。再生される可能性は一人一人の心にかかっている。今こそ心を取り戻す時なのだ。
祈りは宗教の専売特許ではない、人類共有の、唯一の共通な心なのである。言葉を超えて、国を越えて、文化を超えて、宗教を超えて、心を一つにして「祈る人」を捧げることは出来る。武器も金も主義・主張も何の系列もなく人は祈ることは出来る。そうして人類は祈り続けて来たのだ。
一言叫ぼう「愛」と。
2-5 『向き合う』 ⇦ ⇨ 3-1『去勢』
➩ セラピストの格言
➩ 精神分析家の徒然草




