精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第五章-3
第二章 心の誕生 『5_向き合う』
心の生死、シニフィアン(意味生成作用運動)
心に善悪があるのではなく、物事・言葉・道徳・教義に照らし合わせた時の意味のズレによって、悪になり、一致すれば善ということでしかない。絶対的な悪も善もなく、人の心もまた、そうして善悪の彼岸に在る。
何がその相対的を二分するのか。それは主体がつかんだ意味によって生じるだけで、そこには何の意味もない。
人はシニフィアン(意味生成作用運動)によって紡ぎ出され、そこにピン止めされた自我の意味において、世界はそこに立ち現れ、人はそれを掴むのだ。
そして意味は消滅し、自我も心も消える、永遠など何処にも無い。その時その時に、一瞬生まれた自我は、それを手に入れた瞬間、消滅する。そして新たにシニフィアンは次の意味を手にする。そして又消える。
うつとは
心は在るといえば在るし、無いといえば無い。正に仏教の「空無観」と照応する。
欲望が満たされる、即ちシニフィアンが掴んだ対象の享楽は、その瞬間消える訳で、次の欲望への途切れない橋渡しが行われなければ、主体は無のまま。即ち心は無い。呆然と漫然と過ごすことになる。生きているのは肉体だけだ。精神は止まったまま。この情態をうつという。
どう生きたか
人は目標に到達した時、主体の死を迎え、新たな目標が創設された時、新たに誕生する。主体はこの世界では、生と死を繰り返しながら、電灯が明滅するように存在している。
この様な存在の様式は、誰も自覚することなく、日々時を送っている。人間が生きるとは、唯生命を維持し継いで種の保存をしていくことではなく、どんな心をつくり得たのか、どんな真理と出会い、どんな精神世界を構築したのかを問題にすべきである。
何を成し遂げたかではなく、どう生きたかである。
「心」とは何か、気付くのは対話

時は流れ、世界は変わり、地球も変わった。もう人間が生きていける環境は狭まり、これから自然淘汰が行われるだろう。その時生き残れる人は、後世に何かを伝えていく役目を担う。
それは何か。「心」である。人はどの様にして生きていけばいいのかを伝えなければならない。人類が種の存在を賭けて、辛うじて生き残った人々は、それを教訓として伝える使命がある。
出来れば今変えて、人類は大いなる心の犯ちに気付かなければならない。「心」とは何なのかにもっと早く気付くべきだった。
それはどう気付けば良いのか。答は簡単でシンプルである。「対話」すれば良かったのである。力による解決ではなく、利害損得のある相互の人や国が、共存共栄できる道筋を根気よく対話によって導き出せば良いだけである。
武器も金も労力も宗教も要らない。唯会話して言葉で合意すればいいだけである。3-5年かけても終わらない武力による戦いの無駄な時間を考えれば、対話に何年も要しない。ほんの数ヵ月あれば事足りることなのに。
眼と思情を眺めて笑顔で向き合う

いつの頃からか人はこの対話の心を失った。チャットやSNSは会話でなく、報告と情報でしかなく、人間に最も必要で大事な語り合うことのコミュニケーション能力をインターネットの普及は奪い取った。
今やそれをAIが肩代わりして、適当な文面を人間の代わりに書いている。益々人間が人間でないものになっていく様は、先が見えてしまうほど確実なものになっていく。もう誰もこの流れを止められない。
人間がかつて持っていた、互いに顔をつき合わせて、相手の眼と思情を眺めながら、笑顔で和解、和合、調和して、和気藹藹に笑顔で話し合う日は来るのだろうか。
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