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よく言われる「普通の幸せ」とは何でしょうか?
そもそも普通とは何でしょう?
幸せとは何をもって幸せと言えるのでしょうか。
少女の質問を通して、普通の幸せとは何かについて、セラピストの格言-31を参考にわかりやすくまとめました。
どんなとき、幸せだと思う?
あるクライエントの小学1年のお嬢さんが、両親に尋ねました。「どんなとき、幸せだと思う?」。
父親は「家族で旅行に行ってるとき」
母親は即答できず、うやむやの中「同じかな…」と答えました。
それを聞いてお嬢さんは「私は家族でこうしているとき」と。
これこそ普通の幸せの答えではないでしょうか。この少女は何を幸せと両親に言ったのでしょう。
普通の幸せの定義とは?
そもそも普通という言葉の定義はできません。最も曖昧な言語です。両極端の中央という図式定義はできても、それを言葉にすると適切な言語はありません。
美味しい、まずい、普通という、この普通の味とは何か言えるでしょうか。
私たち人間は日々生活しています。その暮らしの中で普通の幸せとは、下記の三つの指標によって定義することができると考えます。
1.家族みんな健康であること
生命の営みの健康が基本になります。誰かが病気だとその人中心の生活になってしまいます。家族全員で支えていくことになり、規制されて我慢が生じます。個の尊重が失われる可能性があります。
2.ちょっと贅沢ができる
生活の豊かさ、ほんの少しの贅沢ができること。少しのゆとりが不安や不満を払拭し、心の豊かさをもたらします。
3.家族仲が良いこと
家族が穏やかで争いがなく仲良くいられることです。
三つの指標において、普通の家族の幸せがみえてきます。この三つが揃うことが、実は稀で、奇跡に近いのではないでしょうか。
最も難しいのが、「家族仲が良いこと」になります。
家族の中心は夫婦ですから、それは「夫婦仲が良い」に等しいと言えます。
夫婦仲が良いとは
1.愚痴や文句を言わない
2.喧嘩がない
3.労わりがある
4.会話がある、コミュニケーションが取れている
5.お互いを認め合い尊重している
6.理解するように努めている
どうですか?
夫婦仲が良いと言える方はどれほどいるでしょうか。
「今日も遅いね。何してるのかしら」は、もう批判しています。愚痴や文句です。
夫「ご飯まだか、何してた」、妻「私も忙しかったの」
これは仲が良いと言えるでしょうか。
子供がそこに居れば、些細な口論でさえ、喧嘩に聴こえます。不安と恐怖の緊張の中に身を置くことになります。
どれだけ健康でも、お金があっても、心が幸せで満たされることはないでしょう。
少女の言った幸せとは
少女は何気ない暮らしの中で、両親と共にご飯を食べ、何でも話したり、遊んだり、特別でない日常の日々が、私の幸せだと言っています。
安心・安全で両親に見守られながら、ありのままの私が承認されている。欲しいものは買ってもらえる。お父さんとお母さんは仲が良くて、家族と居るときが楽しい。家族団欒のときが幸せだと。
少女は自分の幸せを実感した瞬間、ふと両親に質問したのではないでしょうか。
私はクライエントに「素晴らしい!」と言いました。なぜならそれは、クライエントの家族は三つの指標が揃っている証左になります。悩み苦しみながら邁進してきたクライエントの努力が報われた瞬間です。「そうかぁ、それが普通の幸せなのか。そうかぁ、私は幸せなんだ」と娘が鏡となり映し出されました。
まとめ
普通の幸せの普通とは、特別でないという意味です。穏やかなで何気ない日々を共に笑顔で過ごせることが普通の幸せと考えます。陽だまりのように温かくお互いを認め合いながら、共にいる時間が幸せだと、少女は言ったのです。
家族の普通の幸せの話のようで、実は家族に限定されるものではなく、普遍的な幸せではないでしょうか。
セラピストの格言-31
「普通の幸せとは、家族仲良く、皆健康で、一寸贅沢できる家庭の中に居ること」参考
セラピストの格言
⇨ 格言⁻39はこちら
関連コラム
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⇨ 幸せになるための心の指針15のルール【4~6】はこちら