鏡像関係は、絶対的孤独な人間の寂しさと孤立感を癒す
「知人が涙を流して泣いていました。でも表情は笑っています。泣きながら笑うというのはどういう精神状態なのでしょうか? 悲しいのでしょうか? それとも嬉しいのでしょうか?」
この質問にあなたなら何と答えますか?
泣き笑いから見える人間の複雑さ
笑いの意味は一般的に「嬉しい」ですが、涙というのは一概にそうとは言えません。なぜなら、涙は嬉しい時にも流します。悲しい時だけ流すわけではありません。そう考えていくと、笑いの意味も一つではありません。涙も一つではありません。涙には悲しみも喜びもあります。
人間は、表情から「嬉しい」「悲しい」などの意味を読み取ります。そしてその形式としての表情の裏に感情の意味が複雑に絡み合っています。要するに表と裏です。ということは、目に見えた表情は人間にとっては仮面です。そして表情という装いの下にあるのが素顔です。
人間はこのように表情という仮面を作る機能、その下に隠した素顔、そしてそれに伴った感情という、実に複雑な構造をしています。このように私たちは二重、三重構造になっています。とても人間は複雑です。そう単純ではないのは、この泣き笑い現象を見ただけでも分かります。
泣きながら笑っている人は悲しいのか?嬉しいのか?
さて、泣きながら笑っている知人は悲しいのでしょうか? 嬉しいのでしょうか? 実はこれは俄には断定できません。というのも、この人の年齢、環境、そして精神発達論で見た発達の段階、その他諸々が加味しないと、断定することは出来ないからです。この質問だけでは情報が足りないのです。
足りない情報はまずは性別、次に年齢です。そしてどういう状況・場面でそういう事になったのか。さらにその時に何か語っているかいないかです。何も言わないとは限りません。泣きながら笑いながら言葉を発するかもしれないからです。
言葉があった場合はジャック・ラカンの理論を持っていれば非常に特定しやすいのですが、言葉がない場合はどうしてこの表情に至ったのかの場面状況から仮定するしかありません。
しかし、笑いの意味はいくつあるでしょうか。人はどんな時、どんな心情の時に笑うでしょうか? 人の笑いはいっぱいあります。
恥ずかしい時の笑いを照れ笑いといいます。苦笑いというのもあります。他にも嘲笑うという笑いもあります。馬鹿笑いもあります。大声で笑うというのもあれば、微笑みもあります。そっとほくそ笑むもあります。実に様々です。
すると笑いと言うがそれは微笑だったのか、馬鹿笑いだったのか、嘲笑い、照れ笑い、苦笑いだったのか、どれに相当するかということになります。その時に文字を知っている人はそれはどんな笑いなのか、喜びの笑いなのか、その笑いの意味はどういうことですか?と聞きます。というふうに、本人に聞く以外はありません。決して思い込まないことです。
このようにその素顔の元にある心情が何なのかということは、この質問だけでは断定できません。この人が本当に悲しいのか、喜びなのか、苦しいのか、これは全く分かりません。
思い込み理解を避けるために
全体の人間の自我構造を知らないと、自分の経験と自分の構造で判断してしまいます。自分がいつもそうだからきっと相手もそうだろうという、人間の認識はこれしかありません。これを思い込み理解といいます。思い込み理解を避けるためには、人間の複雑な構造を知っておくことが大切です。人間の二面性、仮面と素顔の構造、こういう複雑なものを持っていることを理解しておくことです。
泣きながら笑う意味は一つではありません。嬉しくて涙が出ている場合もあります。また、人は痛い時には涙が出ますが、その痛みを和らげるために笑うこともあります。これを躁的防衛といいます。泣きと笑いが乖離していて、それぞれの意味がしっかりある場合もあります。
思い込みをせずに本人に聞いていくことでその意味が明らかとなり、その泣き笑いが危険なものなのか、それとも問題視されないものなのかの判断もつきます。
人は、心も複雑ですが、想いと感情の組み合わせも多種多様で、自分自身ですら判らないほど多面的な存在が、人間なのです。共に理解し合い、共感する事の難しさを痛感する人の一側面です。