鏡像関係は、絶対的孤独な人間の寂しさと孤立感を癒す
価値ある人とは一体どういう人を指しているのでしょうか? また、人間の価値は誰が決めるのでしょうか? 他者が決めるのでしょうか? 自分が決めるのでしょうか? もし自分で決めるとするならば、そもそも自分が自分を価値づけるというのは一体どういう構造なのでしょうか? ここではこういった問いにお答えしながら、最終的に真の人間の価値とは何かについてお答えしています。
途中、LAFAERO1(ラファエロワン)の精神分析家が目指した精神科学や、LAFAERO1の精神分析家が精神分析で使っている言語についても触れていますので、精神分析やジャック・ラカンの理論(象徴界や大文字の他者)に興味・関心のある方にもぜひ読んで頂きたい内容です。
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価値ある人とは?
価値ある人とは一体どういう人を指しているのでしょうか? 価値ある人の定義でよく使われる言葉は必要とされる人です。必要とされるということは役に立つ、日常語で言うと使える人です。共に仕事をしていて「あいつ使えないな」ということがあります。この使える人、これは価値です。使える人というのは有用性という実に実務的な考え方です。
しかし、この定義に納得しない人もいるのではないでしょうか。
役に立つということはその事に対する機能性が高いという意味です。言い換えると、価値ある人とは道具的存在です。しかし人は道具ではありません。だからそれが価値と言えるのか? どこか納得できないというのは、このように人間は単なる道具的存在ではないことを主張しています。道具である前に人間だと言っています。そう叫んでいます。しかし社会は人間である前に道具と見做します。要するに、使えるか使えないかで判断しています。
人間の価値は誰が決めるのか?
人間の価値は役立つという単なる機能的なものだけではないことが少し分かってきました。ただ単に使えるから、能力があるからということが人の価値を決めるものではないとすれば、何が、もしくは誰が決めるのでしょうか。決め方は、「自ら」「他者」「神」この三者の決め方があります。
他者の評価、価値づけ
価値という概念は実用性から考えて行くと、必要とされるとは、みんなに使われるということです。それは愛用されるということです。用いられ、使われるということです。それは自分を支持する支持者が多いということです。より多くの支持を受け、より多くの人に使われるということは、これは数の問題になります。多くの人に必要とされる人が価値があって、少数派は価値がないことになります。多数か少数かということが価値を決めています。それでは価値は数学になってしまいます。これは民主主義の落とし穴です。
他者の評価、価値づけに頼っていれば人は一喜一憂します。我々はどうしても他者に自らの評価を委ねている限り、一喜一憂から逃れることはできません。常に振り回されます。挙句の果てに他者の規定に従う奴隷になってしまいます。
自分が自分を価値づける構造
自分が自分を価値づけるというのは一体どういう構造なのでしょうか。自分を心理学ではエゴと言います。そしてもう一人の自分、この自分という新たな外からのエゴを外エゴと言っておきましょう。これは一つの審判、判決を下す、判断する、または審理するという機能です。
私は行為者と捉えます。実際自分が行為した、行為したエゴです。審判、そして判断することの客観性とは、一つはこの行為を正確に記述できるかどうかです。要するに、正確に覚えているかどうかが要点です。これが第一の根拠です。更にその正確なデータを利害から離れた所で果たして中立に判断できるかどうかです。もう一つはその判断の根拠です。ここが一番要になります。裁判所は六法全書にある法律に基づいて判断し、その法律に照らし合わせて量刑や罪状を決めています。このシステムは自分自身の評価でも同じことが行われます。
情報の正確さ、そして中立性、そして何を基準にしたかという法、この三つが揃ってそこから判断されたことが正確な自己評価です。これは裁判ではなく、自分を規定することです。
問題は法、即ち人道という法です。するとどうしても神という領域に行かざるを得ません。だから必然的に人間は神を要請してしまいます。要請とは作り出してしまうということです。だから精神科学は物理学と数学と宗教がどうしても関わります。この融合を目指したのが私の精神科学です。最後は神と仏という、人間の価値をつける法をどうしてもそこに求めざるを得ない構造が人にはあります。
価値は否定と肯定によって構成されている
結局人間の価値は価値という理論を知らなくても必ず否定に出会います。否定がなければ価値論は存在しません。否定があるから価値論が生まれます。自分のした行為を「それは無駄だ」と言われたことを想像して下さい。「あなたのした事は無駄です。一切使えません」と言われたらどう思いますか? 辞表を提出しませんか? それは価値があるからという、いわゆる自分の価値というものを規定していることが前提です。
私が私の価値を規定していなければ、私の言っていることをどれだけ否定されても、否定されたという概念がありません。
ところが価値論はそれを実体化してしまいます。価値論の最大の幻想は実体化です。思考は全部実体化して考えています。言っておきますが、象徴界に実体はありません。何一つ存在しません。さもそこにあるかのように、これを業績もしくは実績と言います。実績を自分の価値の実体化として捉えます。
価値論のない人には否定は存在しません。しかし価値論を持っている人は、実体化しようとする人は、否定に汚染されます。
否定というのは「それはダメ」と言っただけで、何も壊していません。自力でしたことが全部帳消しになるわけではありません。だから全く恐れるに足りません。同時にまた肯定も意味がありません。何故なら価値は否定と肯定によって構成されているからです。そこで実体化しています。別に何の実体化もありません。
価値は否定と肯定によって構成されています。この二つの言葉に挟まれて漸く存在しうるのが価値です。何故絶対化されるかというと、実体化して考えるからです。人は単なるイメージで終わりません。そこに自分の命懸けの命を実体化したいと思っています。だから価値論を持っている人はいつも命懸けで生きています。
価値の落とし穴は実体化にあります。これを離れたとき真の人間の道を歩めます。人道とはこの価値を超えたところにあります。では誰が決めるのでしょうか。
真理とは?
人間の基本は、主体は常に新しい自分S₁に向かって運動しています。それを法や自分、そして神という概念の大文字の他者の集合体から言葉を選んで規定します。規定は現在形です。S₁は未来、未だ実体化されていないイメージです。斜め棒を引かれているSが現実界の私です。するとそれに匹敵する言語を法・自分・神のいずれかから選んできます。
問題は言語の選出です。数多ある大文字のA、しかしこのAというのは我々は法律の六法全書を全部知っているわけではないから、知っている限りの知、それは情報、自分の記憶に依ります。だからAにジャック・ラカンは丸をつけました。それは限定付きで私の辞書、あくまでも個人知であることを意味します。
それでは客観性がないことになります。私の辞書から選んだ私の規定であるならば、それは自ずと中立と言えるのでしょうか? 内部監査と一緒で、内部の人間が内部の不正を暴くことはできません。外部監査なら客観性があるという、監査と同じ構造です。私の中にあるAを使っている限り、信憑性に乏しくなります。だから外部から取らざるを得ません。主体の外側の全く第三者としてそれ以外の場所にある文字、このAの中立性と客観性に依存するしかありません。このAを真理と言います。
因みに私が精神分析で使っている言語はまさに大文字のA、ラカンがいうところの大他者の真理の言語から抽出しています。決して私個人が持っている丸Aではありません。
自分を規定する、価値づける言語は、法・自分・神の三つに一応集約されてきました。他者は省きました。何の根拠もないですから。というのは他者ができるのは否定と肯定だけだからです。真理を語る知はありません。
真の人間の価値とは?
大文字Aを真理と規定すると、法と神は一つになります。真理というのは掟でもあり法則でもあり科学でもあります。すると今まで矛盾し別々だったものが、真理という言葉に集約されます。言い換えると神の言葉は真理です。だから真理は神です。
最後は自分がというのではなく、真理の言葉に従うことが真の価値です。だから価値論というのは存在しません。全ては大文字の他者の言葉に従うことが人間の価値です。だから大文字のAにしか言葉にしか存在はありません。実態も何も無いということです。