「魄」(はく)と「ケガレ」
皆様、こんにちは。
先日発売されたある雑誌(あえて誌名は書きません)に、「墓捨て」なる珍妙な言葉を用いた記事が書かれていました。
有名な宗教学者の方が主張している、「これからはお墓を捨てる時代」との主張をまとめたものでした。
「墓捨て」って何をするの?
「お墓を捨てる」とはどういう事か。よくよく記事を読んでみると、今まで私がこのコラムで書いてきた「墓じまい」と同じ事のようです。つまり、無縁になってしまうお墓を整理して、永代供養墓などに御遺骨を移すことを、あえて「捨てる」というショッキングな言葉を用いて記事にしているわけですね。これを主張している学者さんは、「親捨て」(親の介護を放棄すること)を既に提唱しているのですが、その言葉に引っかけているわけです。実態としては特に目新しいことはありません。
「整理」と「捨てる」は違う
では、「整理」と「捨てる」はどう違うか。「整理」は、古いお墓に納められていた御遺骨を、新しい場所(お墓、納骨堂、永代供養墓など)に移し、元あった墓石も、適正な方法で解体・処分するというイメージです。「捨てる」と言ってしまうと、それは、遺棄、放棄という事になり、御遺骨も墓石も、構わずそこら中に放ってしまうような意味合いになってしまいます。もちろん、このようなやり方は違法です。「墓捨て」を主張している学者さんも、違法行為を奨励しているわけではありませんから、このような方法をいたずらに勧めているわけではないでしょう。
「墓捨て」論の欠点
そして何より、「墓捨て」という言葉には、人が持っている愛着心を想定していない響きがあります。煩わしいとか、うっとうしいとか、面倒くさいとか、お墓に対してマイナスな感情を持つ事もあるかもしれません。それでもなお、人にはご先祖様に対して、肉親に対して、そして、お墓に対して、愛着心というものが生じるのです。その点を無視して、ただ合理主義のみで推し進める事が、果たして人の感情にとって良いことなのか。その部分もよく考える必要があるでしょう。
以前から主張していますが、お墓は単なる遺骨の収容場所に留まりません。お墓と向き合うことによる、心のやすらぎ、精神の安定というものがあるのです。人の心の動きも踏まえて、お墓の事は考えていかなければならないのです。