ちょっとややこしい「霊」
皆様、こんにちは。
前回のコラムでは、「魄」(はく)という魂の一部がご遺骨に宿るというお話をさせていただきました。今回はその続きです。
「魄」という考え方は、儒教に基づいたものであるという事は既にお話しいたしました。儒教の考え方は、江戸時代に広まったものであり、日本の歴史からすると、比較的新しい(とはいっても既に300年以上経過していますが)部類に入ると思います。この儒教という一種の思想が日本に入ってくる以前から、日本人の考え方の根幹に「ハレ」と「ケガレ」というものが根付いていました。
「ハレ」とは、簡単に言えばおめでたい事、「ケガレ」とは、簡単に言えば忌み嫌うべき事、であり、いろんな事象が「ハレ」と「ケガレ」に大別されました。日本人にとって「死」とは「ケガレ」であり、忌み嫌うこととして捉えられ、ご遺体(ご遺骨)は「穢れている」と考えられたわけです。その名残として、ご葬儀に参列した時に配られる「清め塩」があります。ご葬儀に参列すると穢れてしまうので、塩を撒くことによって穢れを清めよう、と考えているわけです。
つまりお墓に入っているご遺骨とは、「魄」が宿る大切なものであると同時に、忌み嫌われる「ケガレ」たものでもあるのです。この複雑な感情こそが、お墓に対する「恐れ」に繋がっているのではないか、と、私は思います。もちろん、諸説あるのだとは思いますが。
次回はさらに、お墓を怖がってしまう理由について、「霊」という方向から考えたいと思います。