九九の覚え方(4)(九九ができない大学生を作ってしまう九九暗記の落とし穴)
以前にも引用しましたが、ベネッセ教育総合研究所の調査結果を見てください。
https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/keisanryoku/2007/hon1_2.html
その一部分を抜粋します。
小学生の計算力に関する実態調査 2007 2年生の結果
サンプル 1,350 名(調査全体)
全体(指導要領内)
平均点
78.9 点/ 81点中
正答率
97.4 %
◆分析と考察◆
※かけ算(九九)は、全体の正答率が97.4%であり、2年生の学習指導要領内の計算力は良好と言える。
次のグラフは「ニュースサイトしらべえ」というサイトにのっていたグラフです。
https://sirabee.com/2018/07/21/20161680575/sirabee_180701_991/
このデータをどう評価するかむずかしい点があります。「しらべえ」の場合は実際にテストをしているわけではありませんが、仮にこれをテスト結果とすると、もっとも若い20代の正答率は88.3%になり、正答率は10%下がっています。実際にテストをするともっと下がるのではないでしょうか。
おもしろいのは、「しらべえ」の記事が書かれたのは2018年7月ですから、「ベネッセ」の九九調査をうけた子どもたち(正答率97%)はこの頃19歳位になっています。ということは「ベネッセ」の調査を受けた世代が20歳位になったら、自信を持って九九を言える人が88%ということが現実味を帯びてきます。
私は「ベネッセ」の調査結果は短期記憶を調べたもの、あるいはまだまだ不安定な状態の長期記憶を調べたもの、「しらべえ」の調査結果は長期記憶を調べたものと解釈しています。最近の小学校では2年生の2学期から3学期にかけて九九学習をするのに対し、「ベネッセ」の調査が2007年2月ごろに行われていますので、結果は安定した長期記憶を調べたものになっていない可能性が大きいと思います。
さて、人間の脳は、短期記憶からどのようにして長期記憶に変換しているのでしょうか?じつは詳しい仕組みはまだ分かっていません。分かっていることは短期記憶については脳の海馬と呼ばれている構造体とその周辺で行われていることが一つです。下図を参照してください。『記憶のしくみ 下』(ラリー・R・スクワイア、エリック・R・カンデル共著 講談社ブルーバックス 2013年)15ページ
次に分かっていることは、短期記憶は海馬内でニューロンと呼ばれる脳細胞の中での変化であるということです。おおよその細胞内変化をあらわしたのが次の図です。なおニューロンとニューロンの接続部がシナプスです。『記憶のしくみ 下』30ページ
専門的な説明はたいへん難しいので省略しますが、上のほうがシナプス前細胞、下のほうがシナプス後細胞と呼ばれる細胞(ニューロン)です。これらの細胞の活動が短期記憶になります。これはあくまで細胞の活動ですから、細胞の活動が止まれば記憶が消えてしまいます。
ではこの短期記憶がどのようにして長期記憶になるのでしょうか。
人間のニューロンと呼ばれる脳細胞には短期記憶を長期記憶にするために必要な触媒サブユニット(正確な説明ではありませんが、ここでは「サブユニット」とは「たんぱく質の分子」と考えてください。)があり、そこには短期記憶を長期記憶にしないように抑制する調節サブユニットがふだん働いています。なぜなら人間の脳に入ってくるすべての情報は短期記憶となるのですが、その情報の中には必要なものと不必要なものがあります。そのすべての情報、つまり不必要なものまで長期記憶にしてしまうと、脳の中がゴミ箱状態になってしまいます。そこでニューロンと呼ばれる脳細胞には、不必要な短期記憶を長期記憶にしないように抑制する調節サブユニットが触媒サブユニットにくっついて働いています。ところがこれは必要な情報で長期記憶にすべきであると脳が判断すると、いくつかの酵素がリレー形式で働いて、触媒サブユニットにくっついている抑制型の調節サブユニットを取り外します。すると触媒サブユニットがニューロンの核に働いて新しくニューロンを作るためにたんぱく質を合成せよと指令を出します。(下図参照)『記憶のしくみ 下』86ページ
この時、実験で人工的にセロトニンという化学シナプス伝達物質をニューロンに1回投与すると数分間上記の活動が起こるだけですが、繰り返し投与や長時間投与をすると長期間安定して上記の反応が続きます。つまり短期記憶を確実に長期記憶に変化させるためには繰り返しのトレーニングが必要であるということです。
また暗記が得意な人は抑制型の調節サブユニットを簡単に取り外せる人で、暗記が不得意な人は抑制型の調節サブユニットをうまく取り外せない人である可能性があります。遺伝的要素があるのかもしれません。
さて触媒サブユニットがニューロンの核に働いて新しくニューロンを作るためにたんぱく質を合成せよと指令を出しますと、下図のように働いていなかったシナプスを活性化させたり、新しいシナプスを形成したりします。これはアメフラシという軟体動物の場合ですが、人間も基本的に同じです。『記憶のしくみ 下』107ページ
これで新しいシナプスが形成されました。これが長期記憶の正体です。この時新しく作られたニューロンは大脳皮質というところまで伸び、様々な場所で長期記憶を保存します。
下図参照
https://smarteigo.jp/articles/2835 より
この新しく作られたニューロンは、たんぱく質で作られた構造体ですから、簡単になくなることはありません。幼児期に作られて、老年期まで存在することもあります。老人が幼児期のことを覚えているのはそのためです。まさに長期記憶です。
ただし、短期記憶から長期記憶に変換する時、非常に複雑な経過をたどります。これが弱点で、この時脳が何らかの衝撃を受けると、短期記憶から長期記憶への変換システムが途中でストップしてしまい、短期記憶も消えてしまいます。元イギリス皇太子妃のダイアナさんがパリで交通事故死した時、同乗していたボディーガードは命を取りとめたものの、車に乗り込む以前の記憶はありましたが、その後の記憶はすべて失っていたそうです。下のグラフを見てください。(『記憶のしくみ 上』271ページ)長期記憶が安定するのに約10年かかっていることが分かります。10年間記憶を保持できた長期記憶は、死ぬまで続く可能性が高いことが分かります。逆に長期記憶といえども適度にトレーニングを続けないと消える可能性があるということです。
九九暗記の場合も半年や1年くらいのトレーニングでは、まだまだ不安定な状態であることが分かります。グラフから推測すると3~5年トレーニングを続ける必要があります。実際私の教えるある生徒は小学1年生の3月から九九の学習を始め、2年生の12月までかけてすべての九九学習を終えましたが、暗記が不得意であるため、その後も最低週2回は下がり九九をすべて私の前で言わせるトレーニングを続けました。徐々に九九の長期記憶は安定していきましたが、もう大丈夫かなと思った4年生の2学期に、7×3=28、7×4=24、8×6=42、という間違った九九を言っています。
また気をつけていただきたいのは、間違った九九の短期記憶を長期記憶にしてしまった例があるということです。青穂塾では必ず学校で九九学習を始める前に九九学習を始めます。なぜなら、失礼ながら、学校での九九学習では間違った長期記憶を生徒に作らせている可能性が高いからです。次のメモをご覧ください。
私が自分ののために書いたメモですから、乱雑なのはご容赦ください。青穂塾では九九学習の後に週1回以上、九九をランダムに並べた九九テストを繰り返します。その間違いをメモしたものです。4×7=24、7×4=24、8×6=42という間違いが多いのが分かります。この生徒は女子で、小学2年生の2学期から入塾したため学校より先に九九学習はできませんでした。たいへん几帳面なうえに勉強に対しても前向きで、公立中学に入学してすぐに「私は公立高校のトップ校に行く!」と宣言し、中学生活の計画を立て確実に実行するような生徒でした。その生徒が中3の晩秋の頃こう言ったのです。「先生、あかん。私、九九まちがうねん。」そこで私はこのメモを見せ、「これやろ。」と言ったのです。その生徒はメモを見てしばらく絶句していました。これは4×7=24、7×4=24、8×6=42という間違った九九を長期記憶にしてしまったのです。この生徒は公立トップ高校は不合格だったものの、有名私立高校に進学することができました。
よく似た例があります。小学4年生の春に入塾した男子生徒でした。この生徒がある一つの九九をよく間違うことに気付きました。当時は事の重大性に気付いていませんでしたので、メモも取っていませんでしたし、その九九も忘れました。そのことを面談の際に父親に話しますと、「九九はちゃんと覚えているはずです。」という返事でした。ところがある日その生徒とスーパーで買い物をしている時に、ふと私の発言を思い出したそうです。そこで突然「○×△は?」と聞くと、その生徒は私の指摘した間違った答えを言ったそうです。この生徒は有名私立中高一貫校に進学し、某国立大学理学部から大学院に進みました。
優秀な生徒でも、こんな状態です。
よく似た例が私にもあります。大学を卒業するころ私は「携帯」という熟語を「ていたい」と読んでしまう癖がついていました。おそらく「提携」という熟語と混乱したのでしょう。
私はそのことに気づいていましたので、「携帯」という文字を見るとまず頭の中に「ていたい」という読みが浮かび、「いや違う。けいたい」と修正していました。何度もこの作業を頭の中で繰り返すのですが、「携帯」という文字を見ると頭の中にはまず「ていたい」音が浮かんでしまうのです。この状態が20年くらいは続いていたと思います。間違った読みが長期記憶として私の脳に定着していたのです。幸いなことにやがて携帯電話が発達して「ケータイ」という発音が巷にあふれるようになって、ようやく「けいたい」という音が私の脳に浮かぶようになりました。
整理すると、まちがった九九の長期記憶を作ってしまうと、その長期記憶は消えません。また学校や家庭などで何度も九九暗唱を繰り返しますので正しい九九の長期記憶も作っています。例えば7×6=48という間違った長期記憶を作ってしまったとすると、もう一つ7×6=42という正しい長期記憶も同時に作っているのが普通です。7×6という九九に対して7×6=48という答えと7×6=42という答えの2種類の長期記憶が並立して存在することになります。そうすると学校などで九九テストをすると、子供たちは7×6=42という正しいほうの答えを書きます。ところが九九に対して注意(意識)していない時(Cの例)まちがった方の答えが飛び出すことになります。複雑な計算をする時や入試などで意識が九九以外に行っている時などにそれが飛び出す可能性が高いのです。「計算ミスが多い」人たちの中にこういう例が多く隠れていると思います。したがってベネッセの九九テストで正解を書いた生徒の中にも間違った九九を長期記憶にしてしまった子供はいるはずです。
これを私は「隠れ九九エラー」と呼んでいます。
長いコラムになってしまいましたが、これをまとめます。短期記憶を長期記憶に変換するときは不安定な状態になりますので、繰り返しのトレーニングをする必要があります。長期記憶が安定するまでの期間は個人差がありますので、ご注意ください。不安定な時期はできれば毎日、少なくても週に2回はトレーニングをしてください。安定してきた場合でも、できれば週に1回、少なくとも月に1回はトレーニングをしたほうがいいと思います。
間違った九九の長期記憶を作ってしまうと、これは一生続くことがあり、計算ミスの原因になります。従来から「計算ミスの多い子」と呼ばれた人はここに原因があると私は推測しています。万が一間違った長期記憶を作ってしまった人は、私のように修正用の長期記憶を作る必要があると思います。
なお、このコラムは2019年10月17日に公開しましたが、同年12月6日に修正および追記をしました。