地域密着型サービス(コンビニの介護事業)
阪神淡路大震災から20年
震災20年・・・
私は、いま西宮市住んでいますが、震災当時27歳で実家の神戸市長田区に
住んでいました。まだ独身でした。
震災直後、2階の屋根が崩壊し、瓦(淡路瓦)が私と妹の頭部に降り注ぎました。
両親は、1階で就寝していたのですが、基礎が頑丈であったのか、倒壊することは
ありませんでした。
腕や手指は、血まみれになりましたが、軽症で済んだのが幸いでした。
そこからが悪夢のような光景が目に入ってきました。
近所の方々の救助、忘れ去りたいような現場を経験いたしました。
近所であいさつぐらいしかしない方々を他の近所の人たちと探しまわり
無事を確認してまいりました。その時に近所の方々から情報をもらい、どこに
どんな方が住んでいるのか?ここの人は、独り住まいだよ!とか、ここの人は
足が悪いとか、このような情報、助け合いがコミュニティーなんだと感じました。
そして、避難所生活が始まりました。
指定されていた小学校の避難所は、すでに入ることができず、学校及び関係者の
皆様のご厚意による避難所として、野田女子高校の体育館に避難させていただきました。
なんと、この体育館館には約550人の被災者が身を寄せ合って生活していました。
まずは、被災者を4つのゾーンで区切り役割分担を定め、トイレの水汲み、炊き出し
救援物資の配給などを担うこととなりました。
まったく違う地域での生活していた方と避難所で生活することで、新たなコミュニティーが
生まれました。具合はどうですか?困ったことはありませんか?などなど・・・
そのうち、避難所にはボランティアの方々が多くお越しいただき、被災者へのサポートを
してもらいながら、この避難所コミュニティーを運営することができました。特に高齢者の
方々の情報をボランティアを中心としたリーダーに集約され、日々の避難所生活を
不安なく過ごしてもらえるように運営がなされました。しかし、一番支えとなったのは
地域で共に生活していた住民の方々であったようです。
実は・・・
私はこの避難所で最終的に責任者という重責をいただき、仲間と共に被災者の
方々の生活を支えるという役割をさせていただきました。
いま、20年という年月を振り返るとこの生活を経験し、地域のコミュニティーの大切さが
身に沁みて感じることができ、実践ができたことが、今の生活、仕事の上での良い経験と
なっています。
このようなコミュニティーこそが、近い将来に必要とされる「地域包括ケアシステム」の基本形
であるように日々感じます。
だからこそ、震災を経験した私たちが、率先して仕組みづくりを果たすことが使命であると
考えております。
特にここ数年、このことばかり感じていました。
このように文章にすることは初めてであり、私一人で成し遂げることができません。
ぜひ、地域の方々とその役割を担う介護事業者の皆様と共に果たしてまいりましょう!
最後に・・・
この震災で、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
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