31【金融知識】FIREしたFPが年金定期便を見て思うこと
7.サラリーマン卒業
少し余裕も出てきたので、いつまで続けるか分からない単身赴任生活を満喫しようと芝浦の1DKに住んだ。家賃15万円、会社補助は5万円のみ。快適だった。大学時代の27,000円のボロアパートとはえらい違いだ。もともと家事はできるしスーパー・コンビニもいくらでもある。東京でも定時に帰り、自炊し不動産の作業を続けた。職場でも特に隠しているわけでもなかったので「休みの日は何してるの?」と尋ねられると「アパート買いに行きます」と正直に答えていた。同僚含め、サラリーマンとは会話が合わなくなっていた。一方的に壁を作っていただけなのかもしれないけれど、自分でリスクを取ってる人と会社がリスクを負っている人とでは人種が違う。同じ2億でもサラリーマンとして借りる作業をするのと個人で借りるのとはワケが違う。個人は返せなければいろんなものを失う。信用はもちろん、物件であったり家族であったり・・・、命であったり。
早期退職してからテレビなどはあまり見なくなっていた。専門学校は授業とかぶるし、キユウタイホーム入社後は帰宅し20時~23時は不動産タイムと決めていて時間が合わなかったからだ。そしてドラマで【借金5,000万円!どうしよう?】とか出てきても自分の方が何倍も多くなっていたし、【仕事がうまく行かない、どうしよう?】ってなっても早期退職を経験していたから “イヤなら辞めればよいし、仕事がデキないならむしろ辞めるべき”、と身も蓋もなくなっていた。
東京では通勤時間は徒歩25分、1人なので時間があった。何より、物件検索に時間をかける必要がなくなっていたため不動産タイムも短くて済んだ。初期は自分で物件検索をしていたが、ある程度の規模となり人脈もできてくると不動産業者から物件の紹介を受けられるようになった。少しは川上に移動できたということだ。買うか買わないかジャッジするだけでよくなっていた。なので、久しぶりにテレビをよく見る生活をした。
平日が休みだったので契約や銀行借り入れ手続きなど都合がよかった。2億4千万円まで借入が大きくなった時期もあった。借入が大きくなっても、返済や経費を差し引いたキャッシュフローはすぐに大きくなるわけではない。それでも、家賃収入であるインカムゲインと売却益であるキャピタルゲインを駆使し、借入する・買う・持つ・売る、を組み立て続けた。リーマン後の不動産価格上昇相場をうまく使えたと思う。
最も利益額が大きかったのは1億の物件を売却したときだった。日本BEを早期退職する前に悲壮な決意で買った1億の物件だ。5年間所有し1億4千万円で売却した。単純に4,000万円の利益だ。それに加え、年間1,400万円の家賃x5年で9,000万円。税金などを考慮しても、この物件だけで1億円以上稼げたことになる。空室や修繕など常に悩みつつ相場と売却後の展開を考えながら売却時機を図っていた。ベストではなかったが充分、次につなげることができた。売却決済が完了した後、博多駅の居酒屋で昼間から祝杯をあげた。ビールを飲みながら全身の緊張が溶けていくのを感じていた。勝ちの入り口が見えてきた、と思った。
今でも不動産のことを告げると「いい時機に始めてラッキーでしたね」と言われることが多い。でも、そもそもリーマンショックがなければ日本BEを早期退職していないかもしれない。そして、同じ時期にサラリーマンをやっていた多くの人には同じようなチャンスがあったはずだ。実際に周囲の同僚は僕に訊きながら10名ほど不動産投資を始めた。その中で、1億1千万の物件を早期退職1週間前に購入し、6年所有して1億8千万円で売却した人もいる。大成功だ。仕事をしながら不動産収入を組み立てていくことは相当タイヘンだ。そう言うならやってみるといい。また、「不労所得いいですね」と言われることも非常に多い。もう面倒くさいので笑っているが、働くということはいろんなものを使って収入を得ることだ。カラダ・アタマ・ココロ・ジカン。それに加えてリスクを使っているだけの話だ。要は働き方が違うだけ。それから、「おごって」と言う人と「教えて」と言う人に分かれることもわかった。前者とは付き合う必要はない。
キュウタイホームでは本社に行けばスゴイ人たちがいて刺激を受けたり勉強になるかもと期待していたが、そうでもなかった。どこの組織でも似たようなものなのかもしれない。だからこそ、トップが大事なんだろう。給料も低かった。単身赴任手当てを入れても年収720万円、一部上場企業の課長としては物足りなかった。部長でも年収1,000万円程度。ここで働くことは割に合わなくなっていた。2016年12月、僕はキュウタイホームを退職し2年間の港区ライフを終了、自宅に戻った。なんだかんだで6年勤めたことと自宅に戻る引っ越し代&新幹線代が自己負担であることに驚きつつ。45歳だった。
8.シアワセの逆算
自宅に戻って1年半経った。不動産収入は年間4,000万円。返済や経費を差し引いても1,500万~2,000万円の手取りになっている。貴族の遊びができるほどの収入ではないけれど、やりたいことに時間を使える。カラダを鍛える、マンガを読む、ラジオを聴く、勉強する・・・、不動産を増やす。キュウタイホームを退職してからFacebookにマメに投稿し始めた。41歳のときに大学のクラブの同輩が一人亡くなった。聡明で何でも一番にできそうな朗らかないい男だった。トライアスロンをする元気者だったのに突然だった。それもあり、子供たちに父親が何歳で何をしていたか、何を考えていたかを残しておきたいと思った。死亡の知らせもFacebookでできるので手っ取り早い。日々の他愛ない内容が多いが、周囲を気にせず自分の意思表示ができるのはすばらしい。不動産は物件を入れ替えつつ安定させようとしている。将来の保証はないのでFPとして、不動産投資家として他の収入源を確保する方法も探している。資格の学校で講師ができるかもという話があったので指示に従いCFPと宅地建物取引士を取得した。なかなかすすまないが、ここで講師ができなくてもどこかで講師をしてみたい。いろいろこれからだ。
長女がたまに義父母宅に行くと「お父さんはまだ働いてへんのかー?」と言われるらしい。どんなに収入が低くても普通にサラリーマンやってることだけを働いていると認識する人たちだ。何度か説明したが「ずっと家賃収入が続く保証はないやろ?」と言う。当たり前じゃないか。だから僕は一生懸命いろんなものを使って働いているのだ。呆れていた両親は数年前から父親の退職金で不動産投資を始めた。弟も始めた。僕の動向を見ていて認めてくれた証拠なんだろう。
ヨメさんとも今は関係良好だ。自宅に戻ってから毎日午前中は掃除機かけたり、風呂掃除したり、食洗器をまわしたり、なかなか家事に協力してる。子供とも会話が増えた。退職し自宅に戻った時、長女は大学2年の終わり、長男は高校1年の終わりだった。その後、長女は3度目の前十時靭帯断裂をするが僕は病院や学校への送り迎えにはずいぶん貢献した。今は就活のアドバイスなど役に立っている。長男は高校の部活の顧問とぶつかったりしたが直接、対応できた。銭湯にも一緒に行く。子供が大きくなるにつれて自分も親のありがたみを感じるようになった。祖父が亡くなった際に相続税の重圧から解放され、いろんなサポートをしてくれるようになっていた。親孝行もしたいと思うようになった。ただし、自分がしてもらったことをできる範囲で子供にしてやることが親孝行だ。そして、子供にはオモチャやスポーツなどある程度は「欲しいものは欲しいときに」「やりたいことはやるべきときに」してやりたいもんだ。
人生は無いものねだりだ。忙しい時はのんびりしたいし、お金や時間がある程度あっても充実感や忙しさを求めたりする。もっと稼いで何千万もかけて遊んで過ごすようになれば別なのかもしれないけど何となくそう思えない性分な気がしている、貧乏性だ。もう一つ。「足るを知る」ことが大事なんだろう。最近は酒をあまり飲まなくなった。飲みたいほどイヤなこともなければ飲みたいほどウレシイこともない。年収面でずっと成功の基準にしているのは都銀で働く大学のクラブの同輩だ。上を見ればキリがないけど一般的には成功とみなせるレベルだ。
ソミー生命の池田銀行の元同期に先日会った。白髪が増え、襟元や袖口も清潔感に欠けた。あんなに輝いて見えた説明や知識や商品もあの時で止まって、色あせていた。続けているだけでもすごいことだ。でも、生保での解決方法しか知らないこと、自分の保険会社を崇拝するしかないことは切ない。結局、44名いた池田銀行の同期は20余名だけが残っている。上下の代に比べると異常にたくさん辞めた。バブル入社した先輩は能力以上の会社に入社できたから辞めない、また厳しい就活を乗り越えて入社した後輩も辞めない。ハザマ世代の自分たちの代はたくさん辞めたのかもしれない。あと10年弱で銀行に残っている同期も定年退職だ。そのころには僕は何をしているのか、どんな状態になっているんだろう。現状を変えていくことに加えて、ある程度の現状なら満足できる心持ちに変えていくことも大事なんだろう。
目標を達成するためには目標から逆算していくことだ、と聞く。でも、人生の逆算は難しい。エンドや健康状態が予想できないから。会社や親や配偶者や子供や孫という計算できない存在がいるから。それでも僕がサラリーマンを辞めたのはユメに向かうためではなく、逆算して大丈夫だと計算したからだ。65歳以降も年収1,000万円にはしたい。予想年金額は月次20万円。毎月、不動産であと64万円入るようにすればいい。なら、一億円分くらいの物件を持っていれば余裕をもってクリアできる。あと18年間で資産を極端に目減りさせなければ充分達成できる。長女はあと1年、長男もあと5年で就職する・・・、ハズだ。働き盛りの年代なのでみんな忙しそうだけど同窓会的なモノも増えた。大学時代に戻りたいと言う友達もいる。僕はどこかの時点に戻るのはもちろん、似たようなめんどくさい道をもう一度歩くのは遠慮したい。
もう、すれ違うスーツ姿をうらやましく見ることもない。
長女が数カ月前に運転免許を取った。就活の合間に運転の練習に付き合わされる。USJ並みのアドベンチャーなので口うるさく注意する。「車間距離もっと空けて!」「歩行者や反対側の信号も確認して!」「ちゃんとウインカー出して!」「危ないと思ったらとにかく止まる!」・・・・。自分はそんな選択をしてきたのだろうか!?これからもそんな選択ができるのだろうか!?
ドアミラーの僕は笑っていた。
~終わり~ 2017年執筆 2023年加筆修正
46歳以降はもうしばらく経ってから書きたいと思います
第1章・2章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」1/4
第3章・4章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」2/4
第5章・6章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」3/4