窃盗中毒病 クレプトマニア
今日は、竹屋町公民館でやっている講義で、広島城と城下町について形成と町割について学びました。
歴史というと、何年に誰が何をして、という既成事実があって、それを暗記するだけというように思っている方も多いかもしれません。
しかし、この講義では、いちいち古文書の記載にあたって、それを解釈し、広島城と城下町が造られていった過程を検証できました。
広島がなぜ「広島」と言うかは、諸説ありますが、やはり「三角州で一番広い島に城を造ったから」というのが正しいようです。
また、広島の街は、海に向かう運河を計画的に造り、船による運送を重視した街だったようです。
そして、そのモデルとなったのは、島根県の宍道湖の西岸、平田の街だったようです。ここからまちづくりの名人を招へいして、広島の城下町を設計したということです。
広島市は、原爆で壊滅的になったことがあるので、比較的歴史については認識されていません。
しかし、広島市に歴史と伝統があったからこそ、75年間草木も生えぬと言われた焼け野原に、また街を造ったのでしょう。
そして、広島の歴史と切り離せない問題が、毛利氏のルーツです。
毛利氏は、尼子氏や安芸武田氏などの間隙を縫うように安芸高田を中心に勢力を伸ばしました。
高田と言えば、神楽の聖地です。
神楽と言えば、出雲神話です。
先ほどの町割名人を出雲の宍道湖のほとりの平田から招へいしていることからしても、毛利氏は出雲から出たのではないでしょうか。
今回の講義が終わってから、先生にたくさん質問していたら、テレビ局にインタビューされました。
今日のニュースに出るかも?