~ 士衛塾空手を通して、伝えたいこと 23 ~
士衛塾山梨の門下生に向けた、私からのメッセージを過去のニュースより転載します。
2020年 9月号 士衛塾山梨ニュースより
8月8日(土)ジュニア、9日(日)一般部の夏合宿・審査会が新潟市でそれぞれ行われました。
今年の夏合宿・審査会については、コロナの影響を受け、マイクロバスでの「密」を避けるため、また、前回審査より練習があまりできていない中で、審査の受験該当者がほぼいないため、基本的には不参加としました。その中で、参加したのは、佐藤佑星、細田先生、伊藤家のみでした。
おめでたいことに、佐藤佑星が初段を受験し合格しました。士衛塾山梨としては、久しぶりの初段、男子としては本当に久しぶりです。
彼は、コロナ禍で全体練習が自粛となる中でも、道場開放日に本部道場に来て自主練をしたり、いつの間にかLIVE中継のメンバーとして練習したり、週3回から4回の練習を行っていました。もちろん与えられた課題の提出も怠りませんでした。
佑星は、初段取得まで、2010年7月から始めて丸10年かかりましたが、その経過した期間の努力に見合った帯の重さとなるでしょう。一般社会で一人前と呼ばれるのはもっと早いなかで、10年もかけて一人前になるわけですから、それはそれは重いですね。正に人生と一緒です。佑星は細田先生の弟子となるので私にとっては孫弟子となります。入ったばかりの頃の、気が弱く泣き虫で、お父さんの顔色ばかり伺っていた佑星を思い出します。
最近までは、同級生もたくさんいて、競い合っていましたが、皆脱落していきました。残ったのは佑星ただ一人でした。同級生の中で「一番」強いわけでなく、型が上手いわけでなく、これと言って秀でているものが見当たらなかった彼でした。しかし、優しすぎて、真面目な彼だからこそ、脱落せずに続けたことによって巡ってきたチャンスをものにして初段合格へとなったのです。私は、彼が初段に合格するように色んな諸条件が整っていくのを目の当たりにして、「人の運とは、こういう風にその人を中心に事が上手く運ぶようになっているのだ」と思いました。残念ながら、佐藤佑星よりも素晴らしかった人でも、初段をとれずに色帯で脱落していきました。どんなに苦労をしても続けることの意味を、わずか高校一年の子が証明してくれたのです。
多くの方は否定すると思いますが、現在の黒帯たちは伊藤家も含め、秀でているものがないといっても良いでしょう。よく、藤巻家はサラブレッドだといわれましたが、決してそんなことはございません(失礼)。言うならば、教えられたことに対して、とことん努力をすることができる人たちです。これは全ての黒帯に共通することです。あえて言えば、黒帯をとれる人か、とれない人の違いは、そんなものだろうと思います。その、「そんなもの」を超えられない人が多いのはもったいないことですね。
「そんなもの」ならどっちでもいい。そう思うのは間違いです。現在、動画で課題を出しています。私が期待している、ある生徒に今回厳しいことを言いました。以下お読みください。
【○○に厳しいこと言いますね。上の帯になるために大切なことを書きます。撮った動画は見返していますか?○○は、前回指摘したことが全く直っていません。全部は無理でも、ひとつくらいは直してください。全く初めて行う技ではなく、今までの積み重ねの技なので、今まで指摘されたことを直していれば、特にスローで行うため、できるはずです。指摘されたことをその時だけ一度だけ直すのではなく、出来るところまで練習してください。構えの手や足は、白帯が言われるレベルです。ずっと言われ続けていますね。同じことを直せずに何度も言われてはダメです。「そんな細かいこと!」と思いますが、ちっちゃくて細かいことを直せない人は、大きなことを直すのは無理です。癖になっている箇所は、それこそ何百何千回練習して直してください。その場限りの適当なことをやっていたのでは、直らないで、元の悪い癖にまた戻ってしまうことはわかりましたね。自分流ではなく、基本をしっかり身につけてください。これは、○○が乗り越える壁です。しかし、全く難しくないです。壁を作っているのは、○○自身だからです。どうやったら直るか、よく考えてください。ちなみになぜ動画か…。自分で動画を見返して、悪いところを見つけ、直すのが大事です。藤巻美琴や明日香は何度も見返し、撮り直して一番良く出来たのを送ってきます。動画の目的は、そこです。自分で気づく事が大切です。どうしてもできないところ、わからないところは、悩みを質問してきます。頑張ってください!】
帯はファッションではありません。どんな色の帯でも、その人のそれまでの歴史が詰まっています。それが帯の重さです。見栄だけの黒帯かしたければ、自流を立ち上げて初段でも10段でも20段でもしたらいい。師匠に認められた帯だからこその価値観。師匠と弟子という古臭いけれど、人生を共にする上で切っても切れないとても大切な関係。最近では、先生と生徒という関係の人が増えてきましたが、時代の流れなのでしょうか。月謝を払い利益を供与され一定期間教わればいい「だけ」という感じですかね。
少なくとも、故木村越山総裁のことを、私は他流にいた時は、木村先生でしたが士衛塾に入ってからは「木村先生」とは呼んだことがありません。二代目の木村俊輔師範のことも「先生」とは呼びません。呼ぶときは「師範」です。教わるだけの関係ではなく、人生をかけた師匠と弟子の関係だと思っているので私にとっては当たり前のことです。
師範(師匠)と弟子、先生と生徒、どう捉えるかは、習う側の姿勢であり、自由です。さて、皆さんはどちらでしょうか?