寅子さんの婚活
デフォルト・モード・ネットワーク
脳が、たとえば仕事中や作業中などで外部に注意を注いでいない状態、つまりくつろいでいる状態、脳のアイドリングともいえる状態に働く脳の部位のネットワークが注目を集めています。
脳は体体重の約2%程度ですが、消費エネルギーは、身体の消費エネルギーの20%を占めるそうです。そして、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の状態の時、脳全体で消費するエネルギーの60%から80%を消費するそうです。(「最高の休息法」久賀谷亮 ダイヤモンド社)
くつろいでいるからと言って、脳を休めている、というわけではなく、脳はかなり活動していることになります。
期待を膨らませたり、悲観的になったりすると・・
たとえば、ネット検索して、期待を膨らませたり、逆に成功した話に接して、自分にはできないと、悲観的になったりしている状態は、まさにDMNが起動している状態と言えます。このような感情が突き動かされる状態になれば、脳は激しく働くでしょうから、「脳全体で消費するエネルギーの60%から80%を消費する」ということにも納得がゆきます。
ネット検索をするのが悪いというわけでは当然ありません。
しかし、何気なく情報に接していても、脳は、その情報を自分に引き寄せて検討し、その都度感情が生まれて喜んだり、不安になったりします。
前掲書の中で久賀谷さんは、DMNは「心がさまよっているときに働く回路」と言っています。
DMNに関わる部位である後帯状皮質は「自己へのとらわれ」に関わる部位だそうです(久賀谷さん前掲書)。
マインドフルネスは「心がさまようこと」を修正する
マインドフルネスは、DMNの活動にかかわる内側前頭前野と「自己へのとらわれ」に関わる後帯状皮DMNの働きに変化が確認されたそうです(久賀谷さん前掲書)。
実はこのことは、マインドフルネスの源流となったテーラワーダの瞑想をしている人の説明とも合致します。
テーラワーダの修行法である観察瞑想を、1日14時間2週間続けると初期の悟りに到達するそうです。
観察瞑想は、自分の動きや見たもの聞いたもの、感受したもの(サティ)に対して言葉で確認作業(ラベリング)をする瞑想です。1日14時間やるのですから、起床して起き上がる体の動きから始まり、顔を洗う歯を磨く、食べる片付ける、歩く、トイレに行く、座って瞑想するなどすべてが観察瞑想の対象になります。現代のマインドフルネスも同様に、観察瞑想と同様に、日常での体の動きと感覚に注意を集中します。
何故ラベリングのようなことをするのでしょうか。
人は「見たこと、聞いたこと、体に感じたこと」から、思考が連鎖して思考が感情を生み出します。「見たこと、聞いたこと、体に感じたこと」にラベリングすることによって、思考の連鎖を止め、感情を生み出さないようにするためです。
「心がさまよった」時に、「今それが欲しい、こうであったらいいな」という思考がおこった場合、それは裏返せば「いまここにはない、そうではない」「いまここに無いこと、そうではないことを甘受しなければならない」ということです。
「あったらいいな」にもかかわらず「いまここにない」と心が感じているとしたら、続いて「なぜなの」「自分はなぜそうなのか」といった思考の連想へのつながる可能性があります。
認知行動療法を創始したアーロン・T・ベックさんの「認知モデル」では、自分や将来についてのネガティブな思考(非機能的な自動思考)は、体へ影響を及ぼします。思考により、ネガティブな思考(非機能的な自動思考)が生じると体にも緊張状態をもたらします。
マインドフルネスは、現在の体の感覚への注意の集中により、体の感覚へのラベリングをすることにより、思考の連鎖により心のさまよい、さまよいに伴って生じる感情により思考が左右されることを排除します。
感情(好悪の感情)に自分の思考が左右されることがなくなれば(少なくなれば)、好悪の感情に影響されずに物事を観る思考方法、つまり仏教でいう「智慧」が発現します。
「智慧」とは宗教的なものではなく、「日常的に自分が悩まないための新しい認知がうまれること」と理解してください。
テーラワーダの瞑想実践者はマインドフルネスの効果をどのように説明しているのか
認識能力が変化する
マインドフルネスの原型一つである観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)の効果を、スリランカ出身のテーラワーダ長老のアルボムッレ・スマナサーラさんは、次のように説明しています(以下 大念処経 アルボムッレ・スマナサーラ サンガ刊より引用)。
(観察瞑想による)「確認作業を続けていると、能力上がります。脳の中にも新しい配線が現れてくるのです。妄想を起こす配線をバイパスして、認識データをそのまま認識できる能力がついてくるのです。」
仏教の瞑想なので妄想という言葉が出てきますが、妄想を「期待」「不安」と言い換えて理解してください。スマナサーラ先生の説明を言い換えて、人は物事を認識すると「期待」や「不安」が半ば無意識的に生じるが、脳の中に新しい配線ができて、「期待」や「不安」をおこす配線をバイパスして、認識データをそのまま認識できる能力がついてくる、と理解してよさそうです。
私自身のマインドフルネスから経験していることは、言葉=概念を概念として理解するのではなく、概念=ラベルとしての言葉が指し示そうとしている物事とははどのような出来事であり、どのよう力(方向性)をもっているのだろうか(実態)、ということを強く考えるようになることです。自分では実態思考と言っています。
DMN「心がさまよっているときに働く回路」の説明
「言葉を使うと、心の中でその言葉に関係のある想が回転します。(中略)言葉を使うとは、想を掻きまわすことです。言葉を使うたびに想も増えてゆくのです。」
ここで言っている「言葉」は観察瞑想のラベリングではなく、日常的に何気なく使う言葉、つまり無意識的におこなったラベリングと考えてください。
「想」は、人が外部の刺激に接して、半ば無意識的におこる反応と考えてください。
「心がさまよっているときに働く回路」DMNが起動している状態をうまく言い表しているように思います。
マインドフルネスの婚活における効果
マインドフルネスに取り組めば、すべてうまくゆきますよ、というものでは当然ありません。
効果を期待するのであれば、相応の努力は必要になってきます。
マインドフルネスストレス低減法(MBSR)を創始した、ジョン・カバットジンの講座は、8週間のプログラムでした。週1回の講座への参加と、週6日の自宅実践が要求されます。
MBSRは、慢性疼痛等の慢性疾患に苦しむ方向けのストレス低減法ですが、逆に言えば8週間で順序立てて、やり方をマスターし、後は週6日の実践を続ければ、成果が期待できる、ということになります。
脳に新しいバイパス回路をつくるのですから、1日や2日ではできません。
なぜ慢性疾患にMBSR(マインドフルネス)が効果を発揮したのか
マインドフルネスは、人間の認識システムに働きかけるから、という説明になりそうです。
グレゴリー・ベイトソンさんは、人間の認識をこう言っています
「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは”彼による足の踏みつけ”そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された”彼による足の踏みつけについての私のイメージ”に他ならない。」(中略)「痛みすら、正真正銘の創り出されたイメージである。」(「精神と自然 生きた正解の認識論」佐藤良明訳 思索社)
人間は外部からの刺激や、身体に発生した痛みを直接経験することが出来ません。
身体の感覚も外部での出来事も、人の心にとっては、両者とも「認知システムの対象」ということになります。
人間は、外部からの刺激や身体の痛みを神経報告として受け取り、脳が再構成して認知するので、「脳が再構成して認知する」システムに働きかけ、「妄想を起こす配線をバイパスして」認知を組み替えるので、マインドフルネスが慢性疾患等にも効果を発揮する、ということが言えそうです。
釈迦の認知論
釈迦は、六六経という初期仏教の経典で、人間の五感と意識の六種と、それら六種によって感知される六要素、つまり人間が感受する神経情報とそれにより形成される思考や感情は自我ではないと説きました。
ベイトソンさんは、痛みはイメージだから自我ではない、とは言ってはいませんが、思考や感情は脳が再構成したもの、と言っていますので、釈迦は2,500年前に、今日の私たちが到達した認知論に、瞑想という方法によって到達していた、と考えてよいように思います。
MBSR由来のマインドフルネスは、少なくともテキストからは、このような釈迦の知見を積極的には活用していないよう見えます。
MBSRのプログラムを参考に構成されたMBCTは、マインドフルネスを通じて「思考は真実ではない」という認知に至ることで、自己に生じたネガティブな反すう(うつに特有の症状、DMNが活性化した時に起こるとされる)を相対的にとらえる態度を養うことにより、うつの再発予防につなげることを意図しています。
もともと認知療法は、「非機能的な認知=自分の気分を下げる認知」をより現実的なものへと修正することを基本的な方法論としますが、MBCTは、マインドフルネスによって「思考は真実ではない」という認知に至ることによって、非機能的な認知の扱い方を変えることにより、うつの再発防止を目指しています。
創始者の1人、J・ティーズデールは、仏教僧の講演を聞いたことにより「仏教による苦悩の分析の核心部にあるアイデアと認知療法の基本的仮説の類似性に衝撃を受けた」ことを契機として、マインドフルネスへ認知療法を統合したMBCTの創始へとつながったといっています(「マインドフルネス認知療法原著第二版」越川房子訳 北大路書房)。
認知の相対化
「人間が感受する神経情報とそれにより形成される思考や感情は自我ではない」とう釈迦の認識論は、ヴィパッサナー瞑想の方法にも反映されています。
釈迦の認識論を自らが体現するために、ヴィパッサナー瞑想が構成されているといった方がいいかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想では、体に痛みを感じたとき(気付き、サティを得たとき)、「痛い」ではなく「痛み」とラベリングします。「人間が感受する神経情報とそれにより形成される思考や感情は自我ではない」ので、「私が痛いのではなく、体に痛みが生じた(そして消えてゆく)」と認知するためです。
MBCTは、自分に生じたネガティブな認知を「思考は真実ではない」との認知に導き、ネガティブな認知が生じたことを認めたうえで、「思考は真実ではない」という視点を獲得することで、ネガティブな思考が生じた場合の対処方法を変えてゆくこと(従前の方法を繰り返さない)を、うつ再発防止の方略としています。
釈迦の心理分析、MBCTともに、自己の感覚、感情、思考を絶対視しない視点、相対化する点で根底には共通するものがあります。
ベイトソンさんが言った「誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは”彼による足の踏みつけ”そのものではなく、踏まれてからややあって脳に届いた神経報告を基に再構成された”彼による足の踏みつけについての私のイメージ”に他ならない。」という説明は、現代の生理学や心理学からは真実ですから、自己の感覚、感情、思考を相対化することによって、自己の苦悩についての思考を相対化することは、可能であり、またもっともなことだと考えられます。
DMNの活性化が心を疲弊させる
疲弊してしまうということは、DMN起動時に「うまくいかなかった(過去を思い出して)」とか「うまくいかないかもしれない(将来を予想して)」などと無意識のうちにラベリングすることによって、「心の中でその言葉に関係のある想が回転」している状態になり、その結果心が疲弊してしまう、と説明できるかもしれません。
DMNが起動した状態では「自己へのとらわれ」も意識されますので、「うまくいかなかった」「うまくいかないかもしれない」というラベリングによってもたらされる「想の回転」は、自己イメージに修正を迫ることとなり、自尊感情を損なう可能性もあります。そうなるとさらに心は疲弊してしまいます。
人間は、どうしても外部の情報に接したときに、自己に引き寄せて(「自己へのとらわれ」)、快適(自分もうまくいきそうだ)という反応や、嫌悪(うまくいかない、失敗するのは嫌だ)という反応をします。
人間のこのような反応は、釈迦の心理分析では、情報に接した時に人はまず楽、苦、不苦不楽を感受すると説明されています。漢訳経典の影響でこのような表現が使われますが、それぞれの意味するところは、好ましい感覚心地よい感覚、忌避したい感覚苦痛な感覚、どちらでもないこと、です。
また、フリードマンさんとフォスターさんが、人の暗黙の情動として、快適な、不快な、あるいは中立的な反応をする、という研究結果があるそうです(「マインドフルネス認知療法原著第二版」)。釈迦の心理分析が、現代の研究によって裏付けらていると理解してよいと思います。
人間は、認知システム上バイアスがかかるようにできている
心理学者ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞受賞)さんは、人が意思決定をするときに、無意識的自動的に意思決定するシステム1、意識的論理的に意思決定するシステム2という2つの判断メカニズムを想定して、そのため人間の判断には固有のバイアスがかかる言っているそうです。
システム1は、素早く無意識定な直観を生み出し、システム2は時間はかかるものの慎重で、論理的かつ意識的であるそうです。(「社会脳ネットワーク入門 芋阪直行・越野英哉 新曜社)
DMNを「心がさまよっているときに働く回路」とするならば、DMNが活性化している時には、システム1の意思決定につながりがちであり、時間をかけた論理的、意識的な意思決定とはならない、と考えてよいようです。
マインドフルネスは疲弊しない心をつくる
マインドフルネスは、DMN時における「心がさまよう」ことを防止し、それによって疲弊しない心を目指します。
「うまくゆかない」から心が疲弊するのではなく、「うまくゆかない」という認知に反応して「心がさまよい」、それに伴って感情が生起することにより心が疲弊します。
物事は、うまくゆことばかりではありません。
うまくいっている、うまくいっていないというとらえ方自体を見直してみること、うまくいっている、うまくいっていないというとらえ方をした時に、自分の体に起こる感覚の変化や心に起こる変化への感受性を高めることで、自分の心の動きを知ることによって自分の感じ方を変えることで、心が疲弊することを防ぐことが出来ます。
自分か感じている状況認識に、「うまくいっていない」と言葉を使って認識(ラベリング)すればそれは厭離の感情(離れたいという気持ち)を生み出します。「自分の希望通りになっていない(状況)」「でも手ごたえはあるからもう少し継続してもよう(認知)」や「だったら少し変えてみたらうまくいくかもしれない(認知)」という言葉を使って認識ラベリングすれば厭離の感情を起こさないこともできるでしょう。
マインドフルネスは、心の自動操縦状態を脱して、冷静に物事に接する態度を育てます。
マインドフルネスについて
マインドフルネスは、禅(大乗仏教と自称)やテーラワーダ(釈迦直伝の仏教を自認)等の瞑想の方法と効果に着目し、仏教とはかかわりなく実践できるようにしたものです。
マインドフルネスは、J・カバットジンが、1979年に、マサチューセッツ大学メディカル・センターのストレスクリニックに、8週間の「ストレス対処およびリラクゼーションプログム」(後のマインドフルネス・ベイスト・ストレス・リダクション=MBSR)を開設したことから始まったようです。
このプログラムは好評を博したことから、後に一般の方向けに本が出版されました。
さらに、J・ティーズデール達が、MBSRに着目し、うつ病の再発防止プログラムとして、マインドフルネスに認知療法を統合したマインドフルネス認知療法=MBCTを創始したことから、マインドフルネスが心理分野から広く注目を集めることになりました。
現在では、マインドフルネスは、ストレス低減効果から企業内での生産向上や能力開発等のための教育訓練にも活用されているようです。
心理分野では、MBCTに限らず、セルフコンパッションやアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)などにも影響を与えている、取り入れられているようです。
原型となった(釈迦の教えを伝承した人々である)禅やテーラワーダの瞑想は、釈迦の至った境地に至ることをめざす「仏教」の修行です。
「仏教」の修行ですから、「仏教」を信仰していない現代人が、禅やテーラワーダの瞑想をそのまま実践するには抵抗があると思われる部分もあります。
禅やテーラワーダなどの仏教的な人間観(たとえば無我)が、近代的な自我意識とは相いれないと受け取られるかもしれませんし、キリスト教徒には受け入れにくと判断されるかもしれません。
MBSRにしてもMBCTにしても、慢性疾患やうつの再発を防止したい人々を対象にしていますから、特定の宗教的信仰がある人でも抵抗なく取り組めるようにするため、仏教色を極力排除する、という配慮が働いたのかもしれません。
マインドフルネスは仏教色を払拭したうえで、禅やテーラワーダの瞑想の技法を活用して、人間の脳の機能へ働きかけ、認知の変容により苦悩を低減するプログラムとして組み立てられています。
その一方で、釈迦の心理分析や瞑想の方法とそれによる苦悩の治癒効果は、現代の脳科学の成果と一致するようです。
というよりも、2,500年前に釈迦が到達した方法論を、現代の脳の研究が後追いして検証している、といった方が適切かもしれません。
マインドフルネスは、エクササイズやトレーニングと同様のものなので、自身が主体的に取り組み継続しないと効果がでません。
継続して取り組み、すこしづつでも効果が実感できれば継続して取り組む動機付けになるでしょうが、効果が実感できない場合には、あきらめてしまうことにもなりかねません。
マインドフルネスをすると、なぜそうなるのか、とういうことを説明してくれるのは、釈迦が到達した人の心の分析についての理解であるように思います。
マインドフルネスは、釈迦の心理分析に基づき、禅やテーラワーダが組み立てた瞑想体系から一部を切り出した瞑想であるがゆえに、実践を強調している側面が強いように思います。瞑想自体は実践を継続しなければ効果がでないものなので、方法としては当然のことではありますが。
心理的な苦悩や気分障害を低減するためのカウンセリングやセラピーでは「心理教育」という方法があります。
クライエントに、(あくまでも仮説になりますが)なぜそのような悩みが生じているのか、それを解消するにはどのような方法があるのかを説明し、その方法を理解してもらいクライエントの自発的な取り組みにつなげる方法です。
禅やテーラワーダの方法論をそのまま実践することは、現代人には不適当と思われる一方で、マインドフルネスをマインドフルネスとして実践するだけではなく、何故そのような結果を生み出すのか、という禅やテーラワーダの知見(釈迦の到達した心理分析)を活用、つまり、宗教としての仏教ではない、釈迦の心理分析に基づいた「心理教育」も併用することにより、より効果的にマインドフルネスに取り組めるのではないかとも考えています。



