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こんにちは、与一の井上です。
みなさんは「今日家に来れる?」「これまだ食べれる?」
これらの言葉をどう思いますか。
そう、いわゆる「ら抜き言葉」というものです。
このコラムの原稿を今Wordを使って書いているのですが、今まさに「来れる」「食べれる」の2つの言葉には、間違った箇所に記される二重線が付けられています。
今さら言うまでもありませんが、これらの言葉は「正しい日本語」でありませんよね。
「ら抜き言葉」は間違っている?間違っていない?
何故もう擦りに擦られた感のあるこのようなことを言い出したかと言えば、最近中高生が使う言葉に対する違和感とも異なるもやもやした気持ちに、新聞記事を読んで自分なりの答えが出たからなのです。
10/4日徳島新聞掲載の記事の概要を摘まむと以下のように書かれていました。
『ら抜き言葉は「可能」と「尊敬・受け身」を区別する日本語の明晰化の結果である。そもそも古文であった9種類の動詞の活用が5種類になったように、ら抜き言葉は千年に及ぶ日本語動詞の簡略化の一部であり、ら抜き言葉を使う若者たちは日本語の運用を効率化している旗印である』
つまりら抜き言葉が「間違っている」という考えは、逆に言えば四角四面に物事を考えすぎていて、新しい考え方や流れに対して適応・アップデートできていないと言うこともできるのです。
この記事を読んで正しくないもの全てを「間違っている」と考えるのではなく、「通じる日本語として認める」姿勢が必要なのだと考えさせられました。
「本来正しくない」言葉を使う子どもに対してどう対処するべきか
最近よく聞き、耳に馴染まない言葉があります。
「可能性あるくない?」「これでもいけるくない?」…という「~くない?」という言葉です。
「ない」という言葉が活用し「なくない」になるのであれば、その反対の「ある」も「あるくない」と同じようになると考えた言葉なのだろうと思います。
中高生に物を教える仕事をしていること、またそもそも言葉にはこだわりがあることから私自身にこの言葉はやはり染み込まないのですが、これが間違っているから使うな、ということを言いたいのではないのです。
それを言い出せばもはや市民権を得た感すらある「半端ない」(半端ではない)、見える化(可視化)などの言葉も一々あげつらう必要が生じます。
これらを前述の通り「日本語の明晰化の流れ」であると取るならば、私が先の記事を読んで出した答えは、「使わせない」のではなく、「本来正しくない」としっかり認識させる必要があるのではないかということです。
言葉、つまり言語には全てTPOに合った用法があります。「敬語がない」とよく言われる英語ですら表現の適不適が存在します。
普段「俺」と言っていても作文では「僕」「私」と書くように、普段一人称が自分の名前であっても面接では「私」というように、その場に応じた言葉を使うことは不可欠な行為です。
ですがその言葉が「普段使っているけれど実は正しくない、不適切なもの」であると知らなければどうでしょう。何の疑問もなく使ってしまうことは間違いないでしょう。
先日与一で実施している「日々題」で高校生に向け次のような問題を出題してみました。
・この本「良くないですか」
・その言い方「悪くないですか」
・間違いが「あるくないですか」
・そんなことは「なくないですか」
以上の日本語の内正しくないものを選び、それが何故正しくないのかを答えなさい。
ほとんどの子は正解を選べていました。
ただ「ほとんど」ということは何人かは「あるくない」が間違いであると知らないこと、またそれがどうして間違いなのか答えられない子が少なくないことは見過ごして良い問題ではありません。
自分たちが普段使っている言葉を「間違っている」と指摘すれば「考えが古い」だの「うざい」だのとおそらく思われてしまうでしょう。
ですがだからといってそれを指摘しないのは違うのではないでしょうか。
「使うな」と言うのではなく、「それ最近良く聞くけど本当は正しくないよ」とやんわり伝えるだけでもいいのです。子どもが「本当は正しくない」と知っていることが大切なのです。
一々目くじらを立てて「最近の子は正しい言葉を知らない」と嘆くより、変わりゆく言葉を許容しながらも正しい事実を教えることが、私達大人が子供に対して果たすべき責任なのではないでしょうか。