『“話せる英語”信仰の間違い』〈大学入試改革・小学校の英語教育への疑問〉
こんにちは。与一の井上です。
「書かないと」と思っている間に気が付けば8月も終わりかなり旬を逃した感がありますが、
8/1徳島新聞の一面に『中3英語「話す」正答12%』という記事が出ていたのをご存じでしょうか。
私は以前からずっと「話せる英語は必要ない」「指導要領改訂による中学生の英語力低下が起こる」と訴えてきました。
残念ながら2023年に行われた小6生・中3生対象の全国学力テストで私の懸念が現実のものとなっていることが示されてしまいました。
詳しく見ていきましょう。
力を入れたはずの「話す」力が前回より低下
まずは大きく見出しとなっていた「話す」の正解率について。
前述の2023年に行われた小6生・中3生対象の全国学力テストにおいて、中3英語の4技能のうち「話す」の全国平均正解率が12.4%となり、4年前の前回に比べ18.4%正解率が低下していました。
この成績の何が一番問題なのか。
勿論何が、とは言わず正解率の下落率が大きいことは言うまでもない問題点です。
また下落した結果の正解率がほぼ1割しかないことも大きな問題点です。
ですが一番問題視すべき事実は、今回テストを受けた中3生は、2021年に始まった新指導要領に基づいて学習をしてきた子達であるということです。
何度もお伝えしてきたように、この新指導要領の主たる目的は、以前から多くの声が上がっていた「学校で習っているのに英語が話せるようにならない」という意見に対する改善という意味合いが最も強かったように思います。
それなのに後述するその他3技能に比べ、寧ろ「話す」についての成績が一番落ち込んでいる現状をどう捉えるべきなのか。
文科省は「テストが難しかった」と言っているようですが、そんな小中学生がテスト後に口にするような言い訳が通用する筈もありません。
指導要領が変わり「話せる」ことを重視しても、定期テストは従来通り書く・聞くだけのものであり、「話す」ことが成績に大きく反映されていない。
この事実が「話せる」ことを教科の目的にすることの難しさを表しているのではないでしょうか。
現場を無視した机上の空論ばかりの「お上」の掲げる「話せる英語」教育は実際に現場でどう行われ、どういった成果を挙げているのかを正しく見つめ直さなければなりません。
その他3技能も成績低下
これこそがまさに私が心配していたことです。
「話せる英語」を掲げ行われた指導要領改訂により、中学校での英語は以前よりも遥かに「難しい教科」となりました。
覚えないといけない単語は増え、文法事項も多く/早くなり、実際に行われているかは怪しいですが、授業を英語で行うことにもなりました。
生徒が学校の授業についていけていない、理解できていないことは最早珍しいことではなく、体感ではありますが、数年前と比べ英語が根本的に理解できていない子の数は大幅に増えています。
ある教材出版会社が全国の塾に対して行った「教科書改訂後英語の定期テストが難しくなったと感じるか」というアンケートにおいて、32%が「かなり難しくなった」、43.2%が「少し難しくなった」と答え、併せて75%もの人が実際に中学校の英語の授業・テストが難しくなったと感じているようです。
教える側がそう感じているということは、教えれる側がどう感じるかは言うまでもないでしょう。
以前であれば入塾時に書かせるプロフィールの「苦手な教科」欄には数学・理科・国語と書く子が大半でしたが、最近はその欄に英語と書く子の割合が確実に大きくなっています。
最早英語は今までのような「好きでも嫌いでもない」教科から、数学や理科のように好き/嫌いが二分されるような教科になってしまった印象があります。
「日本人は英語を何年も勉強しているのに話せない」というステレオタイプな批判が、「日本人は英語を何年も勉強しているのに読めもしない」に変わる日はそう遠くない気がしています。
英語を「話せる」は流暢に話せることではない
最近ある大学教授の方とお話をする機会をよく頂くのですが、その方がこう仰っていました。
「何度も国際的な学会で発表されている有名な教授の発表を聞いて感銘を受けた。その方は英語が堪能な筈なのに、スピーチは決して『ペラペラと』話している訳ではなかった。むしろゆっくりと確実に、伝えるべきことを丁寧に伝えていた。これこそが『英語が話せる』ということだと思った。」
日本人は英語が「言語」であるという事実を忘れ、「ペラペラと」話すという形ばかりに目が行っているのです。
「言語」とは何かを伝えるために存在している。この本質こそが一番重要なのです。
考えてみてください。時間を与えられゆっくり考えたとしても書けないことが、口頭でさっと答えられると思いますか?
「話せる」とは日常会話だけを指すのではありません。
グローバルな社会において、経済・政治・社会などの問題に対し、自分の考えを正しく相手に伝えることこそが、「英語が話せる」ということなのです。
本質を忘れ「英語コンプレックス」に怯えながら「ペラペラと」話すというガワだけを求める。
日本人の恥ずかしがりであるという特性や、正しい発音で話せばからかわれるという悪習に目を向けず、可能不可能を事前にしっかり考えず理想ばかりを現場に押し付ける。
これが今の日本の英語教育の実態です。
よくいいますよね。「外国人はそんな文法なんて勉強しなくても話せるじゃないか」と。
私たちは誰に教えられなくても歩くことはできます。
でも泳ぐことは教えられないとできない人が大半です。
母国語と第二外国語の違いも同じです。同列に語るべきではありません。
みなさんは走ることを教えられるとなったとき、速く走れるようになりたいですか?キレイなフォームで走れるようになりたいですか?
キレイに走れれば遅くてもいい。そうは思いませんよね。
日本の英語教育に大人が求めていることはこれと一緒です。伝える内容よりも形を重視しているのです。
まだ教育に携わる一部の人たちしか感じていませんが、日本の英語教育は未曽有の危機を迎えていると言っても決して大げさではありません。
生徒は勿論保護者一人一人が「何故英語を勉強するのか」を正しく理解し、正しい教育が行われるように求めていくことが不可欠です。
少しでも多くの人がこうした問題を認識し、危機感を共有してくれることを心より望んでいます。