50歳だけど介護保険証のメリットって、どうやって受けるの?
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おはようございます。富士市にて在宅医療に携わっております薬剤師の栗原です。
在宅医療の働きをしておりますと、だいたい年間に、私の場合20名程度の患者様とのお別れを経験します。末期になってから関わらせていただいた患者様の場合、いつの間にか(それこそ私が後になってから気がつくほどに)関係が終わるということもありますが、それなりに長く関係を気付いた患者様とのお別れももちろんあり、考えさせられること少なくありません。
1)ナラティブ医療とは
薬剤師が勉強しなければならないことには色々ありますが、その中の一つにナラティブ医療というものがあります。今のところ薬学部の学習要綱には明確には組み込まれておりませんが、そのうち現行要綱のある部分も解釈され直されて明確に組み込まれるであろうものです。「ナラティブ」は簡単に訳すと、物語。
患者様一人一人が持っている人生という背景(物語)、並びに患者様の語り(言葉)から汲み取れる一人一人の価値観、人生観などを重視し、それを医療の方向性に役に立てていこう、という医療指針です。
現在のところ、それほどこの「ナラティブ医療」というものには明確な定義がありません。まだ議論すべき論点について十分な対話が出来ていないからです。
だからと言って、このナラティブ医療を軽視していいということではありません。経験的には医療者が実際に行なっている患者様との対話の中に「既に」あるもので、その意義が日に日に重視されてきている言って良いものです。
2)患者様の人生を見つめる
多くの患者様には「病歴」があります。若い頃、そして現在に至るまで、どのような疾病を背負ってきたかを記しているのが「既往歴」などと呼ばれるものです。
でも、この「既往歴」が、それだけで存在するものではありません。病名は同じ胃潰瘍だとしても、一人一人の人生の中にそれらは位置付けられているものであり、当然ですが、「病歴」だけで患者様の全てが知れるわけではないのです。その病歴を通して、その患者様の人生にどのような変化がもたらされたのか、さらに踏み込むと、その患者様の人生観や世界観にどのような変化がもたらされたのかといったことまで観察していくことを、この「ナラティブ医療」は目指していると私は考えています。
3)ナラティブ医療は患者様の環境まで対象とする
また「疾病」は、実際には患者様一人がそれと向かい合ってきたものとも言い切れません。ご家族、親族がその疾病と、何らかの関係を結んできたと言っても過言ではありません。すなわち病歴は、本人だけでなく、その患者様が生きている環境にまで影響をもたらしており、医療者はそれをしっかりと見定めた上で患者様と関わっていくことが求められています。
こういうことは、薬局薬店に来られた患者様にお薬を渡すだけの働きであれば、なかなか難しいことと言えます。患者様が心を薬剤師に開いているとは限らず、また薬剤師に対して何らかの期待も抱いていないことも少なくないからです。
でも、在宅医療に関わり、ケアマネージャーから「診療情報提供書」などを受け取り患者様の家族関係や病歴、現在の生活状態など一覧できるようになると、途端に、患者様の「ナラティブ」が浮かび上がってくるのです。
4)ナラティブ医療の2つの側面
ここで言う「ナラティブ」には2つの側面があります。1つは、患者様自身が語る事柄。そしてもう1つが、患者様自身は物語らないけども、病歴や家族構成、現状などが「言わずがな」で物語ってしまう事柄です。
①患者様の物語ること
患者様が自分で物語ることに関しては、当然、できるだけ語ってほしいと私は思います。何か心境的な変化が生じることで、なんらかの医療手当を受けたりするなどの変化も起こりうるでしょうし、なにより患者様の心から生じる「願い」を、医療指針に活かしていくことができるからです。
では、患者様が、あまり自分では物語らない場合はどうでしょうか?
②患者様の物語らないこと
私自身は、患者様が自分で語るにしても語らないにしても、両者にはそれほど大きな違いはないと考えています。物語らないことにも、なんらかの価値観や考え方が横たわっていると考えるのが自然だからです。「どうしてこの患者様はあまり自分のことについて語ろうとしないのだろう」というところから、患者様を思いやり、何かのきっかけでその患者様の人となりを知り、そこを起点にコミュニケーションを測っていけばいいだけだからです。
1つ注意が必要なことは、無理に患者様に語らせようとすることも間違っているということです。たとえば私は広島生まれで、祖母は広島に原爆が投下された時、爆心地から5キロ程度北の広島駅の裏手にいたと聞いております。一度、介護の現場で、その頃の経験を聞きたいと話を振ったこともあるのですが、語ろうとして心を閉ざす姿を目にして、それ以上、聞くことをやめました。物語れば、その頃の痛みも思い出すでしょう。思い出したくないこともあるでしょう。原爆によって失った人生に想いを馳せる苦しみもあったでしょう。それをあえて解き放させようとする権利は私にはなかったはずです。
ですから患者様があまり自分について語ろうとしないのであれば、それ自身に患者様の人生が関係していると考えて、それ以上あえて踏み込まない優しさも必要になってきます。それゆえにこそ、初めて心を開いてくださる関係もあるからです。
5)いくつかの物語
また、患者様が何かしらただ「1つ」の物語を生きているとも考えるべきでもないと私は思います。本音と建前ではありませんが、患者様の言葉にも、多少の、意図しない裏と表があるものです。それを見損なうと薬剤師の働きの上でも痛い目に遭うことも少なくありません(汗)。要するに、その患者様が他の医療者にどのようなことを語っているのかということを擦り合わせつつ、多面的にその患者様の「語り」をとらえていくことがどうしても不可欠になってきます。
文学作品の解釈や受け止め方に、読み手によって差があるように、患者様の「語り」にも多面性があるのです。それを前提にした上で、患者様の「真意」を探りつつ、医療者として関わっていくことが求められています。
何かの患者様の選択があるとすれば、その選択に至った理由があります。でも、その「理由」にもそれを持つに至った何らかの「理由」があり、その「理由」がなくなれば、選択も当然、変わってくるものです。ですから患者様の物語に対する態度として、私たち医療者には、文学作品に対峙するような誠実さが求められていると私は思います。
先日、『物語のカギ』という、大変素晴らしい本を読みました。https://amzn.asia/d/cLOBJo8
文学作品を読み解く手解きの解説がなされているのですが、この本の中でいくつもの名の知れた文学作品の感銘的な解説がなされておりました。でも、この著者の渡辺祐真氏によると、どの解説も、一回の文学作品の読解で至ったものではないとのことでした。
再読する中で、文学作品に隠されていたけど、今や明らかになった秘密がそこでは明らかにされている・・。優れた解説者でさえ再読が必要なのが言葉というもの。
ですから人の語る言葉にも、そういう「隠された」部分というものがあると考えるのが自然と言えるわけです。
6)人生の終わり方のパターン
ナラティブ医療の目的は、私は、一人一人の患者様が、その人らしく生涯を「閉じていくこと」を手助けしていくことだと考えています。「閉じていくこと」とは、言い換えると、そのように「亡くなっていくこと」を手助けするということです。なぜかと言いますと、物語には必ず「結末」があるからです。
『物語のカギ』の中で、物語の終わり方について次のようなパターンがあると紹介されております。
「風景」がいい仕事をする終わり方
人が「もう一仕事する」終わり方
語り手がしゃしゃり出る終わり方
ハッピーエンドとアンハッピーエンド
褒章的結末と賞罰的結末
意外・寸止めの結末
円環を描く結末
これらは、不思議なことに一人一人の人生の終わり方と非常に似通っています。
①「風景」がいい仕事をする終わり方
→患者様のご家族、またそのお住まいの中である種の佇まいを醸しながら静かな人生の閉じ方をされる場合。
②人が「もう一仕事する」終わり方
→患者様が最後まで周りの医療者にまで配慮し、医療者、またご家族に良い働きかけをして迎える最期。
③語り手がしゃしゃり出る終わり方
→介護されているご家族が、患者様の人生を物語る終り方。
④ハッピーエンドとアンハッピーエンド、並び褒章的結末と賞罰的
→医療者が評価できるものではありませんが、考えさせられる閉じ方
⑤意外・寸止めの結末
→突如として訪れる最期
⑥円環を描く結末
→最後までその人らしい迎え方、並びにご遺族との繋がり方
7)ナラティブ医療の最終目的は?
医療者ができることは、言うまでもないことですが、患者様の最期を評価することではありません。ナラティブ医療の目的は、それとは全く逆の場所にあります。それは、その患者様の人生観や世界観の(意図したものであれ意図せざるものであれ)完成のお手伝いだと私は考えています。
まずは一人一人の患者様と誠実に向かい合うこと。私どもにできることはそこに始まり、そこに終わるものです。
在宅医療などご興味がありましたら一度お問い合わせください。信頼できる医療機関のご紹介をさせていただきたいと思います。