5)傘鉾奉納
西古川町ができたのは・・・
長崎市西古川町は、343年前の1672年(寛文十二年)につくられた町です。
どうしてできたのか?
寛文三年(1663)「寛文の大火」がおきました。
焼失した各町を、新たな市街区画整理しようということで 寛文十二年(1672年)に貿易差銀分配及びくんちの経済的な負担を考えながら 古川町を分割し本古川町、東古川町、西古川町ができたのです。
延宝二年(1674年)「長崎くんち」に初めて西古川町が参加したと言われています。
その当時より、相撲にちなんだ出し物を諏訪神社に奉納していたと思われます。
どうして、相撲?
それは、江戸勧進相撲の創始者で、日本最初の横綱格である、明石 志賀之助が西古川町に住んでいたと言われています。
明石 志賀之助が、名だたる日本一の相撲力士であったために 西古川町の住民はもちろんのこと長崎中の人々が、彼に教えを請い 長崎に於ける相撲の中心となりました。・・・『長崎相撲の発祥の地』
その弟子の中で群を抜いた実力者西古川町の浮船百度兵衛が、1717年(享保二年)に、長崎奉行より相撲司家の免許を頂き長崎相撲頭取制度の基礎を築きました。
そのとき以降、西古川町の乙名(町の代表者)は、肥後藩吉田司家より相撲頭取の免状をもらい長崎に於ける相撲の興行全て(旅人登録から宿泊・出立準備)を取り仕切っていました。
これは、大変なことと思います。なにせその当時の相撲力士は、荒くれ者で喧嘩が強くその彼らの口論・喧嘩の仲裁その他色々なトラブルを穏便に済ませ、役所の旅人方には、力士の登録をし また、長崎から出立の時 旅費がない力士には与えたりしていたみたいです。
江戸時代 相撲の興行が行われていたのは 三都・五場所でした。
三都とは 三つの都 当時の 『京都・江戸・大坂』のこと
五場所とは『仙台・名古屋・和歌山・岡山・長崎』です。
九州で唯一の場所でしたので、横綱・丸山 權太左衛門、大関・雷電 爲右衛門等々
有名な相撲力士が長崎で相撲を取っています。
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