塾長の考え(失敗とは何か?)①
「自立心」を育むにはいつから?
それは早ければ早いほど良い。
理想は小学生のときからである。
「鉄は熱いうちに打て」
ということわざ通りである。
高校3年生の生徒が自立型の指導を、
受けても大学受験まで1年間もない。
年が明けたらすぐに共通テストがある。
基礎学力が乏しい状態で塾に来る、
そのような生徒が多いので、
その場合には、
学力向上のために「教える」という、
直線的な指導が急務となる。
足し算的指導が中心となるため、
やるべきことが直接的なものばかりだ。
例えば覚えるべきことを覚える。
抜けているところをその場で補強する。
模擬試験の過去問で課題を発見する。
その課題を克服するための補習に、
塾では日々明け暮れる。
その結果本番までに間に合えば、
それでいいじゃないか、
そう考える生徒とその親御さんたち。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
わが子が小学生の時から塾通いさせる、
そういう親御さんたちがいる。
その目的は何か?
それは究極的にはわが子の「幸せ」、
そういうことになる。
具体的に言えば、
わが子が大学にいずれ進学する時に、
「自分で選択できる道がいくつもある」
この状態に導いてあげたい、
そのために塾に入れて送迎する。
しかしながら、
わが子は小学生時にはそんな先のこと、
いわゆる自分の未来に関しては、
明確でないことが多いし、
覚悟も決まっていない。
中学受験という目標を立てているようで、
実際は大好きな母親の笑顔が見たくて、
母親から褒めてほしくて勉強を頑張る、
それがほとんどの子の真実。
中学受験で合格したらなぜ嬉しいのか?
それはわが母親が喜んでくれるから!
と、ここまではいい。
問題はここから先である。
私の母親はよく知人に、
「(子どもが)小学生のときが花よ!」
と言っていた。
自分が子ども時代のときは、
ずっとこのセリフの意味がわからなかった。
このセリフからわかることの1つに、
わが子といえども、
小学生であるか中学生であるかによって、
母親の存在意義が変化するということ、
それがわかる。
小学生にとってわが母親の笑顔は、
何ものにも代えがたい。
金メダルなのだ。
そんなわが子の一生の方向性が決まる、
それが「大学受験」である。
そこに向かって親としての子育てという、
「戦い」は終わらない。
続いていくのである。
わが子にとって長い人生を生きていく、
そのときに頼れるのは「学力」である。
お金を残すのではなく、
教育という資産を残してあげられるか。
そこが子育ての最終的な評価であり、
実績となる。
教育とは「教える」だけではダメ。
「育てる」という要素が必要だ。
「育てる」という行為は時間がかかる。
直線的ではなくて曲線的な接し方が、
必要であり効果的だ。
そのような教育ができる場所に、
出合えるかどうか、
そのような教育者に、
出会えるかどうか。
それがその子の運なのだ。
(続く)